Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

フィクションにおける「不正解」という選択肢 〜WHITE ALBUM2

当たり前のことではあるが、人生というものは一度きりである。
生きていると様々な岐路に立たされ、その度に人は選択を迫られる。

後悔という感情は現状の不満を納得させるための苦しい方便であり、自分の選択が間違っていたと思い込むことは、他の選択肢を選ぶことが出来たという妄想を肯定するフィクションから生まれている。

理想を選べない現実というものに、人は常に悩まされ、苦しみ、もがいている。しかし、多くの場合、その理想的選択肢というものはフィクションである。つまり、もともと選ぶことを否定されたこの世の中に存在しない世界の物語なのだ。

それでも人は選ぶことが出来たはずだと思い悩む。選ぶことが出来ないのが自分、選ばなかったのが自分であると、「自分」を肯定して生きることはとても難しい。
正解の無い人生の中で、「自分」の正しさを信じ切れるほど、人は強くはない。後悔というものは、実は自分は正解を選ぶことが出来たのだという自己弁護であることを、本来そのような可能性がないにもかかわらず、「自分」に与えてくれる。

人は後悔をしなければ、まともに生きていくことはできないのだ。


WHITE ALBUM2というゲームは、少し前なら美少女ゲーム、システムだけ見るなら紙芝居ゲーム、今風の雑な言い方をすればエロゲーというジャンルにあたる。しかし、ゲームとはいえ、基本的に選択肢を選ぶことによりストーリーが変わるだけの読み物であるとすれば、ジャンル分けは何々ゲームというものではなくストーリーの内容で分けるべきだろう。
だから普通に、恋愛小説というジャンルに例えればそれで意味は通じると思う。

恋愛小説…。おそらくゲームファンにはかなり遠いジャンルではないだろうか。恋愛を取り入れたゲームという意味では、RPGやシミュレーションゲームにその痕跡を認めることは出来る。しかし、そこには恋愛に不必要な「ゲーム」という部分が存在する。友好度を上げる、パラメータを上げる。そのために敵と戦う、コマンドを実行する…。極めて無駄な作業だ。しかもストーリーと全く関係ない。恋愛と無関係だ。

恋愛というのは人間関係の中にしか存在しない。その人間関係を表現するためのゲーム性とはなんだろうか。この部分はゲームの歴史としてあまり掘り下げられた分野ではない。また、望まれてもいない。ゲームを進めるために有利になるようなパラメータを設定するぐらいにしか活用方法が存在しない。

つまり、人間関係というものは際限が無いのである。ゲームとして取り出すには情報量があまりに膨大で、あまりに複雑でしかも理不尽である。登場人物達の全行動パターンをあらかじめ設定することは困難だ。だからそれをパラメータに置き換えて、ある程度の数値を上回れば相手が好きになるように設定する。極めて安易だがそうするより他にない。正解と不正解を設定しなければゲームにならないからだ。

だから、恋愛をテーマにゲームを作ろうとすれば、それは書くしかない。不要なゲーム部分をそぎ落とし、場面説明、人物像、心理描写などを徹底的に書き連ねるしか方法がない。いわゆる紙芝居ゲームに恋愛小説が多いのは、恋愛というテーマ自身が膨大なテキストを必要とするからである。恋愛という要素自身がゲームの性質を決定してしまっていると言ったほうがいい。


さて、上記のようであれば恋愛小説を書けばいい。なぜゲームにしなければならないのか。

ゲームにするということは、その物語が不完全であることを認めることになる。ゲーム性とは常に不完全であり、不完全だからこそプレイヤーの介入する余地を与える。完全に閉じた物語を前にしては、プレイヤーは画面の前で黙って鎮座するしかない。ページをめくる作業をアクションゲームに変換したようなものが大半である。

不完全な恋愛小説。これがクリエイターに蠱惑的な魅力を与える。あらゆる可能性というものを盛り込むことが出来るこの世に存在しない世界。つまり、フィクションである。

これは少々説明が面倒だが、ノンフィクションと対の意味でのフィクションは虚構の物語一般を指す。これを敷衍して、フィクションに対してその物語の筋を変えたものを書いたとしたら、それはフィクションに対するフィクションと言える。以後、フィクションは合わせ鏡のように際限なく創造され続ける。フィクションa,フィクションb,フィクションc…というように。

これは、小説であれば否定されるべき要素である。もともとフィクションである物語は様々な選択肢を取り除いて作成されたのものであるから、取り除いたはずの選択肢をそのまま残してしまっては、初めから際限の無いフィクションを抱え込んでしまっていることになる。これではいったい何を書きたかったのか、また何を書いたのか分からなくなる。正反対の行動をとる主人公が同じ物語に同居できるはずがない。

しかし、これは禁断であるが故にクリエイターの興味をかき立てる。別の女性と付き合ったらどうなるか。ヒロインと別れたらどうなるか。本来二次創作としてファンに預けられるべき領域を侵してしまう不当行為を、クリエイターは不完全な物語として意図的に創造する。恋愛シミュレーションゲームというものが複数の女性を攻略するというゲーム性を持ち、それ自体がフィクションの中のノンフィクションというものを持たないが故に、紙芝居ゲームとして書き起こそうとするとあらゆるものが等価値にならざるを得ない。

端的に言えば、目的は重厚で壮大な物語ではなく、かわいい美少女とのコミュニケーションとCG集めにあるわけだから、固定された物語の中でストーリー上こぼれ落ちてしまう女の子をそのまま捨て置くわけにはいかないという事情がある。本来小説が持つべき物語性とはまた違う目的を持つが故に、内容は不完全になり、二次創作まで作者が自前で作らなければいけないという結果になる。

以上のような理由で、恋愛小説をそのまま提供するのではなく、主に男のプレイヤーに対して都合のいいストーリーを作成し、尚かつ複数の女性とのコミュニケーションを実現させるため、不完全な恋愛小説をゲームとして提供するのである。ガチの恋愛小説を求めない男性プレイヤーに対し、エロという糖衣を施して処方すると表現したほうが身もふたもなくて分かりやすいかも知れない。


それでは、WHITE ALBUM2について書いていきたいのだが、当然ながらネタバレが存在する。興味もなくこんなブログを読むわけは無いと思うが、一応念のため。

この物語は高校時代から始まり、大学を経て社会人になる約5年間を描いている。

高校パートは物語の発端。
主に主要人物三人の関係が描かれる。選択肢はなし。

大学パートはフィクションの詰め合わせ。
まさにゲームとして存在する理由がここにある。ヒロインとの関係修復の狭間で、あるはずのない物語が描かれる。

社会人パートは三角関係の結末。
どちらにもエンディングはある。ただし、その陰影は大きく異なる。

プレイヤーは懊悩する主人公を俯瞰的立場で眺めながら、登場する女性達の人物造形と身体造形を観劇することになる。

主人公は北原春希。春をねがうと書いて春希。これはストーリーを暗示している。
成績優秀で人の面倒見が良く、他人から頼られるクラス委員長タイプ。よくあるハーレムアニメの主人公と比べればよっぽどしっかりしており、まじめであるが故に罪悪感から逃れられずにいる。
エロゲーの主人公としては致命的な欠点を持ち、多くの女性と関係を持たなければならない状況に放り込まれることをおそらく迷惑に感じていることだろう。

メインヒロインは小木曽雪菜。誰もがうらやむ学園のアイドル。歌うことが大好きで、主人公と出会うきっかけもこの「歌」だった。この物語を創造した作者といってもよく、基本的には彼女の手のひらの上で主人公もその他登場人物も踊り続けることになる。

サブヒロインは冬馬かずさ。周りから人を遠ざける不良娘。しかし絶世の美女であり天才ピアニストでもある。最後まで春希の不倫相手のように扱われ続ける不憫な女性。天才ピアニストという肩書きは彼女を不幸にする。まともに恋愛の駆け引きができず、雪菜には逆らうことが出来ない。最後まで逃げ続け、主人公と関係を持ってしまった後、国外へ逃亡する。

三人は高校の学園祭に軽音楽同好会として参加し、一緒にライブを行うことで友人関係を築く。その後、雪菜が春希に告白し付き合うことになり、友人関係は微妙に変化していく。北原君にとっては「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということわざを痛切に感じざるを得ない三角関係を味わうことになる。基本的には、この三人を中心とした三角関係をプレイヤーは楽しむことになる。

普通の恋愛小説ならストーリーを紹介することができるのだが、上記で説明したようにこれは不完全な恋愛小説であるため内容を一概に紹介することができない。それぞれのヒロインと一緒になる結末が用意され、あまつさえこの二人以外の女性と一緒になる結末すら用意されている。どれが本当で何を伝えたかったのか、小説としては最も大事な要素をプレイヤーは感じ取ることができない。フィクションの出来不出来を批評するぐらいだろうか。

しかし、どの結末へ行くとしても、変わらない前提条件というものが存在する。恋愛シミュレーションゲームであれば関係は0から始まるので余計なしがらみというものは存在しないのだが、このWHITE ALBUM2にはこの「余計なしがらみ」が存在する。むしろ、このしがらみがあるからこそ、物語が紡がれていくことになる。

高校時代、主人公北原春希は冬馬かずさが好きだった。しかし、小木曽雪菜から告白され快諾してしまう。後日、かずさも春希が好きだったことがわかり、二人は体の関係を持ってしまう。直後、かずさはプロのピアニストになるため高校卒業と同時に海外へ行くことになり、春希と雪菜は気まずい雰囲気のまま日本に取り残されることになる。

この「余計なしがらみ」は5年後、かずさが再び日本へ帰ってくるまで三人の関係を縛り続け、春希がどれだけ乗り越えたと思っても次々と新たな問題を呼び込んでくる結果となった。

この不完全な恋愛小説は多くのフィクションを抱え込んでいるのだが、フィクションの中の真実、つまりノンフィクションも内包しているという構造になっている。それぞれが完全に独立しさえすれば両ヒロインには都合のいいストーリーが書けるはずなのだが、それを作者は許さない。いや、それを雪菜が許さない。

雪菜は春希がかずさのことを、かずさが春希のことを好きだと知っていながら春希に告白した。

それまでは冬馬かずさがメインヒロインとして存在し、美人の天才ピアニストと世俗にまみれる平凡な主人公とのラブストーリーが展開されるはずであった。人を寄せ付けない不良娘が、おせっかいな男によって目的のない無意味な生活から更生するきっかけを得て、恋心を抱いてしまう純愛ラブストーリーである。
実際のところ、これで一本恋愛小説を書けば十分に読むに耐えうるものが出来上がるだろう。二人の関係を知った雪菜がおとなしく身を引いて祝福すればいい。

しかし、エロゲーというシステムの関係上、完全性は否定されなければならない。不完全にするべく懐に忍ばせた匕首で春希とかずさの関係を断ち切ったのが雪菜である。この断ち切り方は物語のアクセントといったようなものではなく、このゲームのシステムとして要求された行為である。

彼女は閉じた世界を再び混沌に陥れた恐怖の魔女であり、また新世界の創造主だった。彼女はその後、春希の正妻の座を明け渡すことなく物語を紡いでいく。春希が他の女性と付き合うには雪菜の同意が必要であり、雪菜を捨てることは春希に多大な精神的負担と身体的ダメージを与える。

システムとして、エロゲーは複数の女性と付き合う事を内包している。当然、このゲームも同じシステムを採用しているのだが、雪菜以外の女性は全て春希の不倫相手のような扱いを受ける。もちろん結婚をしているわけでもなく、運命的に強固な絆で結びついているわけでもない。高校3年の後半、たまたま軽音楽同好会で一緒にライブをして仲良くなったという事実があるにすぎない。

この物語全体を縛る要素としては非常に脆弱で説得力に欠ける。主人公が雪菜のことが好きで一生離したくないと思っているのだとすれば、エロゲーは成立しない。そこまで覚悟を決めているわけではないとすれば、雪菜以外の女性と付き合う事に罪悪感を抱く必要はない。物語の完成度が高ければ高いほど、この矛盾点は大きくなっていく。主人公の病的とも言える倫理観への服従は時に度を超しており、高校卒業から3年間、雪菜のみならず他の女性とも距離を置くことになる。


誰もがこのゲームをすれば思う。この物語は春希と雪菜の物語であることを。雪菜を選ばなければ結末(最終章)へたどり着くことはできず、三人が共に救われる未来が描かれることはない。であるならば、雪菜以外を選んだルートはやはり失敗なのではないか。選択されるべき未来ではないのではないか。同じフィクションでありながら、これは不正解なのではないか。そう、思ってしまう。

人は後悔をしなければ生きていけない。その後悔は二度と選ぶことが出来ない選択肢だからこそ価値がある。理想の選択肢を選ぶことが出来る自分はこの世界には存在しないが、後悔はフィクションを前提としてそんな自分を与えてくれる。二度と後悔はしないという宣言は、正解のない現実の選択を責任という行為に転化することができる。責任をとれば、どんな選択も正解になり得る。

この物語はフィクションである。事実をねじ曲げて物語を書いているわけではない。クリエイターが書けば、それがこの世界での真実になるのだ。

雪菜以外を選んだルートは主人公が責任を取りさえすれば正解になる。彼にとって、いやゲームの主人公にとって、正解とは責任を取るべき選択肢の数だけ存在する。フィクションにおける不正解とは本来存在するはずがないのである。


この物語には後悔をする人物が二人いる。北原春希と冬馬かずさだ。
春希は雪菜と付き合っていながらかずさと関係を持ってしまったことに後悔する。
かずさは三人の友情と雪菜の想いを踏みにじったことを後悔する。

では雪菜はどうか。彼女は何かを後悔しているだろうか。

彼女は後悔しない。春希を選択したことをまっすぐに正解と信じて、生活の全てを捧げようとする。大学時代に出会う他の女性達もそうだ。彼女達は雪菜とは直接関係のない生活をしているので、春希さえ自分を選んでくれればそれ以上の悩みを抱えることはない。雪菜を裏切ったという後悔を持つ必要が無いのだ。

ここで重要なのは、雪菜以外の女性を春希が選んだ場合、雪菜はその度に振られるのである。そして、その姿は平行世界を俯瞰してみているプレイヤーに何回も晒される。春希の幸せを願うからこそ自ら身を引き、泣きながら友人達に縋り付く姿は、プレイヤーに否応なく苦い後悔を与える。これは違う、これは選択するべき世界の姿ではないと。

雪菜は自らが春希と結ばれない世界をすら、プレイヤーに後悔を与えるフィクションとして利用する。物語を本来あるべき姿へ導くため、他のフィクションとの差別化を図ろうとする。

物語をどれだけ作成しフィクションの数を増やし、本来選択すべきではない二次創作を作り続けたとしても、物語はそれ自体の出生の正当性を示そうとする。一つの目的に向けて強力な指導力を発揮し物語を結末に向けようとする本来の恋愛小説とはシステムが違っていても、複数のフィクションから物語の正当性が自然と浮かび上がってしまう。フィクションにおける「不正解」という選択肢は物語の出生の正当性まで否定できないという形で存在することになるのだ。

この被害を最も受けるのが冬馬かずさである。彼女は春希と関係を持ってしまったことを、雪菜との友情を捨ててまで春希を奪ったことを後悔する。だから彼女は5年ぶりに春希と出会っても自らの思いはギリギリまで胸の内にしまいこんで、二度と後悔はしないと強く心に誓う。
しかし、本来はこの世の中に存在するべきではないフィクションを作者は用意する。かずさにも春希と一緒になる可能性を与える。かずさはふらふらと、そのありうべからざるフィクションに足を踏み入れてしまうのだ。

その結末はゲームで確認して戴きたいが、少なくとも後悔が消えているということはない。深い後悔とともに、自らの選択が間違っていないとしきりに自分に言い聞かせる姿は悲壮感すら漂っている。雪菜と春希が一緒になるルートと比べてみれば、かずさはむしろ雪菜ルートによって救われていることに気付くだろう。

5年ぶりに出会った春希と運命的な再会を果たし、雪菜との友情を維持した上で周りから祝福される物語だって書こうと思えば書ける。しかし、この展開だけは雪菜ルートを完全な意味で否定する等価値な物語になってしまう。これだけはどうしても、例えフィクションだとしても作者も雪菜も許せなかった。いや、意図しない物語の正当性が書くことを許さなかった。


このゲームのような様々なフィクションを内包するシステムは、登場人物それぞれにスポットをあてて描くことが出来る。エロゲーのような複数の女性を主人公が相手にするようなゲームには向いているだろう。しかし、プレイヤーからしばしば散見される「へたれな主人公」というレッテルは、スポットが実は主人公に当たりづらいというシステムの弱点を露呈している。俯瞰視点から見ているプレイヤーからすれば、ただの浮気者にしか見えない。

どの女性とも付き合う事が出来るという状況は、言い換えれば優柔不断であり自意識を持たない操り人形のようなものだ。それがゲームシステム上致し方のない事だとしても、欠点であることは否めない。決断の半分はプレイヤーにゆだねられているとはいえ、プレイヤーと主人公の乖離はいかんともしがたい。この部分においては、それぞれが完全に分離している恋愛シミュレーションゲームのほうが優れている。

正直、これだけのものを書いてエロゲーという世界に埋没するというのは惜しい気もするが、商品に徹した恋愛小説のあり方というものを感じとることも出来る。小説として評価されない作品に膨大なテキストを提供した作家は、しかし、物語の正当性まで否定することはできなかった。幸せな家庭というものにコンプレックスを持っている主人公は、家族の愛で育てられたような雪菜に惹かれるのは当然なことだった。そして、同じようなコンプレックスを持っていたかずさも雪菜によって自分の世界を与えられるという物語は、本来強烈に描きたかった本質だろう。好き嫌いだけで対立する三角関係に新たな解法をもたらしたのは、他の誰でもない小木曽雪菜であったのだから。


昨今、物語というものが乱発され、これまで人の目に触れることのないレベルの作品まで書店に並ぶことが多くなった。レーベルの多様化は市場の拡大を産み、消費者の趣味嗜好に適応するため先鋭化された。エロゲーというジャンルはその中でも独特な立場を占め、ある意味普遍的な欲求の具現化としてその長い歴史を持つことになった。

作家になるために著名な賞を取らなくても、物語を発表する場は多くある。特に、ゲームにおいては名のある流行作家が関わった作品はごく微量で、またそれが売れる原因にはならない。ゲームとしての評価はストーリーも多くの部分を担っているはずだが、実績のある作家を採用することがゲームの質を高めるとは一概には言えないというジレンマがある。それは物語を表現するためにゲームがあるわけではなく、ゲーム性を表現するために物語が必要になるという事情による。

その中で、紙芝居ゲームというのはテキストが大半を占める独特のものだ。ゲーム性は選択肢によるフィクションの増殖ぐらいで、ほとんど小説と変わらない。イラストと音声がある分、こちらの方がよほど手間がかかる。物語の表現方法として、小説、マンガ、アニメ、映画など色々あるが、ゲームも後発ながらその存在感を増しつつある。ただ、ストーリーを評価される土壌が他の分野に比べて未成熟で、またその必要性をあまり感じてはいない。ゲームとしての面白さは物語の完成度だけに依拠しているわけではないからだ。エロゲーなど、Hシーンだけ再生されてストーリーをまともに鑑賞されない作品も存在するだろう。

WHITE ALBUM2はそういう作品群の中でも物語にかなり比重を置いた内容になっている。しかし、これがエロという糖衣をまとわない形で世に出た場合に受け入れられるかどうかはわからない。主人公の行動というものに感情移入をする読者としては、彼の極めてゲーム的な立ち位置は小説としての評価を受けるべきものではないかも知れない。

そういう意味でも、ゲームというものは物語にどこまで突っ込んでいくべきか、やはり小説や映画とは全くの別物としてとらえるべきか、とても難しい問題だと考えさせられる。WHITE ALBUM2はそのギリギリまで深く足を突っ込んでいき、物語の正当性という壁にぶち当たった結果、フィクションに不正解というレッテルを貼らざるを得ないという状況に陥った。それが悪いわけでもないし、プレイヤーによっては雪菜エンド以外を好む人もいるはずだ。

不完全な恋愛小説とは我々にいったい何を与えてくれるのだろうかと、正解のない答えを探し続けるしかないのかもしれない。

ゲームの世界構造〜LAノワールが見せた世界

ゲームはある目的のために世界を切り取って表現している。基本的にプレイヤーからは見えない世界は存在せず、また存在する必要もない。画面に映る世界が全てである。

制作者はその世界の中でゲームを構成する。それはシューティングゲームでもロールプレイングゲームでも変わらない。プレイヤーに必要な情報は一つの画面に集約される。

言ってみれば、世界は逐一プレイヤーの目の前で再構成され続ける。その時々に必要と思われる情報を与えるのがゲームである。

 

書き割りのように次々とプレイヤーの目の前に表示する。そのような作りがゲームにとって当たり前であった。

しかし、高性能ハードの登場によりゲームの性質は変わる。ゲーム表現のために画面を変化させることに変わりはないが、それが一つの空間を共有しているという点が大きく異なる。

いわゆる『箱庭』という空間。現在では当たり前過ぎて表現として意識しなくなったものである。

 

ゲームはある状況を動的に表現するために画面に変化を与える。その方式というものはゲームを特徴づける重要な要素である。それがゲームの歴史であり進化の歴史でもあった。

ある目的のために左右へ行き続けるのがアクションゲームであり、奥へ行き続けるのがレースゲーム、というくくりができた時代もあったが、今ではほとんどのゲームが箱庭空間を共有した単一の世界を構成している。要するに現実世界の法則を模したゲームが大半を占めている。

 

リアリティを出すために現実の空間認識に近づけようとすれば、確かに箱庭空間というものは最適かもしれない。しかし、それはゲームというものの表現方式としては行き止まりではないだろうか。箱庭空間を構築するには構造物の精密さ、物理計算の正確さ、そういったものが求められる。この戦いに持ち込んだのが海外ゲームの成功の秘訣であることは間違いないが、何もゲーム全般の成功を意味しているわけでもない。LAノワールはこのあたりの問題点を図らずも露わにしている。

 

このLAノワールというゲームは、上記のような意味ではいかにも海外的な精密な箱庭空間を表現したハイクオリティなゲームという印象を与えるが、ゲーム性という観点では古典のアイディアをツギハギしたような印象を与える。それは決してゲーム内容から受ける古臭さではないのだ。

 

1947年のロサンゼルスを舞台にしたフィルム・ノワールの手法を使用した世界観は、このような箱庭的表現方式を獲得した現在のゲーム技術を用いて表現されている。

当時の街並みをそのまま再現し、プレイヤーは車に乗り自由にドライブできる。登場人物達はその作られた箱庭空間を平等に歩くことを許され、固定された世界の中で物理的法則をきちんと守りながら生活している。主人公にだけ許された世界というものは存在しない。そこに存在するあらゆるものと全く同じルールに則って行動しなければならない。

 

神が世界のふたを開けて中をのぞき込むと恐らくこのような心境になるのだろうという疑似体験は、ゲームという本来リアリティのない仮想空間を現実の疑似空間として認識しうるほどにリアリティを持つものになった。この中で行われる銃撃戦やカーチェイス、犯人の追跡や取り調べは全て専用の書き割り画面を用いることなく、単一の箱庭空間を共有してできている。主人公がいるいないに関わらず、街並みは常に息づいている。そういう意味では、プレイヤーはそこに『世界』を感じることができるのだ。

 

このような世界表現は本来ゲームに応じて変化しうるものだろう。2次元なのか3次元なのかという段階でさえ、ゲームが表現する遊びに大きな変化をもたらすはずだ。場面に応じた専用の書き割りは、使い方によってゲーム性を豊かにする手法になり得るだろうし、何より不必要な物理計算はゲームがもつ仮想空間の自由度を妨げるものになる。単一の箱庭空間は場面の変化を単調にし、画面から感じるプレイヤーの印象を平凡なものにしないだろうか。そのような考察も、箱庭をのぞく神の所行の悦楽には代えられないのかもしれないが。

 

LAノワールは刑事が事件を解決するアドベンチャーゲームである。関係者に聞き込みをし、証拠を揃え、犯人を尋問し逮捕しなければならない。その過程は実際のところかなり地味である。論理的思考を表現することにゲームはあまり向いていないからだ。いや、この箱庭空間にとって、リアリティの大半は物質的な構造物と正確な物理計算で成り立っているからで、論理的思考を表現しうるゲームシステムをもともと構築していないことが原因であろう。もちろん、最初からそのような表現方法を採用した、例えば逆転裁判のようなゲームにおいては得意とするところではあるが、そこまで専用の書き割り画面を用いていないこのLAノワールは比較的平易な論理的表現方法に終始している。そしてこの弱点を補うための苦肉の策が、答えにより顔の表情が変わるモーションスキャン技術だった。

 

これはしかし噴飯物と言っては言い過ぎかも知れないが、結局のところ汗でも流せば済むような表現方法をわざわざ顔の歪みや視点の定まら無さといった生の表情をそのまま再現した結果、記号としてかえって分かりにくいものになってしまっている。それも分かりづらいように微妙な変化だったり、変化しているのに意味が無かったりと随分あいまいなものなのだ。また、犯人を尋問し逮捕するというこのゲームの最終目的を、ヒント機能を使って選択肢を減らしたり回答率を表示させたりして攻略するというのは、このゲームの力点が論理的思考を表現するところに置かれていないことを意味する。しかしそれは、箱庭空間を唯一のゲーム表現方法としているからこその向き不向きの問題でもある。

 

LAノワールというゲームが1947年のロサンゼルスを『体験』するゲームだとすれば、かなりの満足をプレイヤーに与えるかも知れない。ただ、ゲームを楽しみたいプレイヤーにとって、というのはほとんどのプレイヤーのことだが、これといった目新しい犯人逮捕ゲームをできるわけではないというところに失望するだろう。ゲームというものが何を表現するものなのかということが、ハード性能の向上により世界を箱庭としてそっくりそのまま表現できるということは分かった。だが、その先のゲームルールに対する進化というものは意外と古典的で古くさいままである、ということもまた証明されてしまった。箱庭世界というものは全てをその体で表現してしまうからこそ、個々のゲームルールに不自由さを与えてしまう。オープンワールドにはオープンワールドの遊び方がある、そんなことを考えさせられてしまう結果となった。

 

これまでそれぞれゲームに応じて専用の書き割り画面を用いてきたのは、もちろんハード性能の制限とは無縁ではないが、最も大きいのは制作者の頭の中にあるゲーム性を『仮想空間』としていかに表現するかという試行錯誤の産物であるからだった。全くの無であるモニタ上に『遊べるゲーム空間』をどのように表現したらいいのか、ということを箱庭空間を表現出来る前までは個々に作り上げなければならなかった。闇に覆われた世界を先人達がそれぞれのアイディアというたいまつで照らしながら、徐々に拡げていったのだ。おのおのの土地で異なる風習と社会体制がとられ、信仰する神も用いる言語も違う大航海時代以前の世界である。地図は不完全で果ての見えない地平線の向こうを知恵と勇気だけを頼りに突き進んでいた時代だ。

 

ゲームにおいて、そのような時代は終わったのだろうか。箱庭空間を作ることは最低条件、そこに適用される物理法則もある程度の正確さを求められる。そして今回、犯人を逮捕するというゲームにおいてすら、オープンワールドという世界観を採用しなければならなかった。確かに当時のロサンゼルスをドライブできるという体験は貴重だが、そこに犯人逮捕の為の論理的思考を表現できるシステムは存在しなかった。正しい答えを選択すると犯人が逮捕できるという、これまでいくつ作られたか分からないような古典的な推理ゲームの手法がそこにあるだけだった。そこだけを考えると、精巧に作られたロサンゼルスの街並みはとても贅沢で、時に無意味ではないかと思ってしまうのである。

 

ケータイにおけるガチャガチャゲームは新大陸を発見した。その収益性は倫理的問題を抱えてはいるが、現代に生きる人々のゲームに対する強度(思いの深さ)と生活環境(ケータイ端末におけるコミュニケーション)にマッチした。据え置き機におけるゲームの訴求力が美麗のグラフィックと精巧に作られた箱庭環境に集約されている現在、ケータイゲームのようなアイディアだけで作られる身軽さは存在しない。ちなみに、このゲームを開発した会社は世界で400万本以上売り上げたが破産している。

 

現実の世界というのは、地球は丸く、どこの国でも不変の物理法則で成り立っている。日本だけ人間が空を飛べるようにはできていない。しかし、ゲームの世界というのはどれだけ物理学者が研究し考察しても正解はない。そこに唯一存在する真理は『面白さへの探究心がゲームを作る』ということだろう。

 

LAノワールが見せた世界は、プレイヤーにとってゲーム性と世界が分離したようなちぐはぐな世界だった。オープンワールドと論理的思考との親和性の無さだった。

 

ゲームはプレイヤーの生活環境の変化によって世界の再構築を模索している。精巧に作られた箱庭世界と正確な物理法則は海外ゲームを通じて日本に衝撃を与えたが、表現できるゲーム性は限られている。この手法だけで今まで作られたゲームを置き換えていけば新しいゲームを作れるという幻想はLAノワールにおいて破られただろう。それぞれのゲームには適した表現方法が存在する。そしてその世界は制作者の頭の中にしかない。つまり、アイディア次第である。

 

ゲームの世界は永遠に踏破されることのない未開の大地でできている。だからこそ、プレイヤーは常にわくわくしながら新作ゲームを待つことが出来るのだ。また、そういう状況を続けることこそが制作者にとっては重要なことだろうと思う。

Wiiリモコンの挑戦〜ゼルダの伝説スカイウォードソード

まず、このゲームをプレイしたことがあるだろうか?
ゲームファンなら誰でも知っているほどの知名度を持つこのシリーズは、今回30万本ほどのセールスで終わった。

デジタル放送が始まりHDテレビがどこの家庭でも利用されている現在、時代遅れのSD画質では満足できないというプレイヤーも多いだろうが、おそらく買わない理由はそんなところにはない。

ゼルダの伝説はとても集中力を必要とするゲームだ。気軽にとか、ボタン連打で展開を打開するというようなことはできない。問題を解くためにひとつひとつ適切な道具を使い、適切な行動をとることを要求される。次々と出される課題をクリアしていくうちに、ようやくゴールが見えてくるという内容である。
つまり、いったんプレイヤーは不安と苦悩に満ちた状況になり、努力と工夫を要求され、その解法を忠実に再現することによってゲームを進めることができるのである。

これだけ書けば当たり前のようにも思えるが、果たして娯楽としてこれが正解なのかどうかは評価がわかれることだろう。これこそがゲームと言う人もいるだろうが、ゼルダの伝説についてきたプレイヤーは30万ほどだったということだ。
ゲームは嗜好品であるから好きな人が何人だろうと求める人を満足させる内容であれば商品としては成功である。売り上げとゲーム内容はリンクしないから、売れなかったからといって面白くない作品であると断定することはもちろんできない。

しかし、Wiiリモコンを活用したアクションゲームの開発は、Wiiというハードが存在するための根本的な必要条件ではないだろうか。そのタイトルとして選ばれたゼルダの伝説がこの売り上げでは、Wiiリモコン自体の存在意義を疑われてもしかたがない。

つまり、今作のゼルダWiiリモコンと一蓮托生の関係になっているといっていい。Wiiリモコンで快適に遊べるというレベルを超えて、Wiiリモコンによる新しいゲーム体験をユーザーに提示しなければならない。その試みは成功したのだろうか。



Wiiリモコンの役割

Wiiリモコンは十字キー・アナログスティックと各種ボタンの役割を兼ね備えた入力デバイスである。Wiiリモコン自体の移動のほか、ひねり、振りの感知もする。例えば、ゲーム上で剣を振ろうとすると、従来のコントローラーならボタンを押すことによって行われる動作が、Wiiリモコンを振ることによって直感的に反映される。特に、今作のゼルダWiiリモコンの移動が腕の移動と同期されて上下左右斜めのあらゆる方向から剣を振ることが出来る。これまでのアクションゲーム、RPGなどで行われていた「剣で攻撃する」という行為が細かく分割され、相手の状況に応じて振る方向を変えなければならない。また、右に構えて相手の意識を引きつけておいて逆から切り込むなど、今までにないアクションが可能になった。

剣以外にも、バクダン、ムチ、弓など、実際に腕を動かす動作に近い操作感を実現している。これまでボタンを押すという行為に集約されていたゲーム上の行動がWiiリモコンによって多様なアクションに生まれ変わった。そして、このアクションとはプレイヤー自身が行うアクションのことを意味する。ゲームがプレイヤーにアクションを求める。Wiiが目指したゲームとプレイヤーの新しい関係を今作のゼルダはまさに体現した形になった。




・アナログであることとデジタルであること

おそらく、制作者側の意図は達成された。Wiiリモコンによる新しいゲーム体験は今作のゼルダによって創造されたのだ。これはいわゆる「端緒」であり、ここから様々なゲームがゼルダを参考にしWiiリモコンによるゲームとプレイヤーの関係を築いていかなければならないのだろう。しかし、それにはプレイヤー側の求めに答える形でなければならない。つまり、必要とされているか否かだ。

プレイヤーとゲームの関係というのは命令する側とされる側という関係に置き換えられる。この関係性はゲーム内容に大きく左右され、プレイヤー=キャラクター、プレイヤー=管理者、プレイヤー=傍観者、といったようにゲームとの距離感の違いによってさまざまな状況が考えられる。Wiiリモコンの存在価値はもちろんプレイヤー=キャラクターという状況においてもっとも発揮されるだろう。

Wiiリモコンというアナログデバイスは現実の行動における動作を忠実に再現できる。剣を振るという行為をWiiリモコンの動きのままに再現できる。これは確かにゲーム性の新たな地平を開拓できるだけの可能性を感じるが、ゲームが求める結果というものは往々にして決まっている。つまり、正解か不正解か、だ。

柔軟な剣の軌道は極めてアナログ的な動作の再現だが、倒したか否かはデジタル的である。どのような過程を経ようと相手の体力を減らすことは数値として処理される。体力ゲージの低下はダメージ蓄積量の目安としてデジタル的に表現される。結果的に体力ゲージを0にすることが目的という単一の目的は柔軟な剣の軌道という存在価値に疑問を投げかけてしまう。

これはあらゆるゲームにも言えることで、唯一この疑問から逃れられるのは対戦ゲームにおいてである。格闘ゲームでもFPSでも、アナログ的な過程の細分化というのは人との駆け引きにおいて最も発揮される。ゲームプログラムを相手にした場合、そこにどうしてもデジタル的な嘘くささがが感じられてしまうのだ。

特に、ゼルダの伝説というのはゲームシステム的にデジタルの集合体といってもいいほど完璧なまでに管理された世界で構成されている。リンク自身の剣と盾によるアクションはWiiリモコンのアナログ的な操作を十分発揮できるのだが、その結果をアナログ的に表現できるような世界には存在していない。ゼルダの伝説の世界はデジタル的に完璧であるがゆえにアナログ的Wiiリモコンとの関係性をうまく築けていないという難しい問題があるように思う。



ゼルダの伝説の世界

デジタル的に管理された世界とはなんだろうか。ゲームである以上ONかOFFかで管理されるのは当然だが、システムとして組み込まれているというと話が違ってくる。

ゲームをドミノ倒しに例えるとわかりやすい。ドミノ倒しは前の牌が倒れることによって後ろの牌を倒し、その連鎖で並べた牌を倒していくゲームだ。この場合、牌が倒れる条件は前のドミノが倒れて後ろの牌にぶつかることである。それ以外の条件で倒れた場合や後ろの牌が倒れなかった場合、ドミノ倒しは失敗となる。
このドミノ倒しの列がひとつしか無い場合、途中で止まってしまえば失敗である。しかし、複数あればどうだろうか。どれかひとつでも列が最後まで倒れれば成功なら、目的達成のための条件はゆるいことになる。

ゲームというものは目的が用意されているが、目的を達成するための条件の難しさが難易度とすれば、条件の種類(列の数)は自由度と言えるだろう。条件がゆるければ達成できる別の正解を求めればいいのだが、正解がひとつしかなければその答えを求めるため努力し続けなければならない。つまり、自由度がないということだ。ゼルダの伝説はドミノ倒しの列がひとつしかないゲームシステムと言える。

このような世界において、Wiiリモコンのアナログ的な自由度は目的達成のための自由度のなさのために潰されてしまう。システムがWiiリモコンの振り方を強要するので、プレイヤーとしてはWiiリモコンを振る楽しみが半減してしまうのだ。
Wiiリモコンを用いたアクションゲームというのはWiiリモコン前提で作られなければならない。それがゼルダの伝説というゲームシステムありきの世界で使われることが条件になった場合、Wiiリモコンは残念ながらこれまでのアクションを代替するだけの存在になってしまったのではないだろうか。Wiiリモコンによる新たなゲーム世界の表現は、ゼルダの伝説というゲームシステムの世界観に付き添うような形になり、プレイヤーに新鮮なプレイ体験を感じさせるまでには至らなかった。ここに今作の最も大きな問題点があったと思われる。



Wiiリモコンの可能性と現実

ゼルダの伝説は今後も作られ続けていくだろう。しかし、そこにWiiリモコンのような入力デバイスはおそらく必須ではない。WiiUにてそのようなリモコンがでないとすれば、ゼルダの伝説にとってWiiリモコンとのコラボレーションは今作が最後になるかもしれない。

Wiiというハード、Wiiリモコンプラスという入力デバイスが必要というハードルは、多くのプレイヤーにとって決して低くはなかった。それでも買って遊んだプレイヤーが満足したかどうかは人それぞれだが、欲しいと思った人はそれほど多くはなかった。

Wiiリモコンを振るという行為はこれまでにないゲーム体験をプレイヤーに提供し、その意味ではWiiというハードは多くの人々に受け入れられた。特に、ライトユーザーと言われるパーティーゲームの延長で遊ぶ人々には、操作のわかりやすさがゲームとの垣根を低くし、リビングのTVを占領するに足る理由を与えることができた。

今作の不幸はそのようなライト層には難しすぎ、ヘビー層にはWiiリモコンを振る操作が無駄な労力に思われてしまったことだ。その中間層こそメインターゲットであると思われるのだが、名前だけで買われるほどの魅力が今作にはなかったのだろう。

ストーリーに関しても問題がある。
空に浮かぶ島に住む人々とリンク達の物語はほとんど関係がない。リンクの大冒険はゼルダと少数の人々だけが知り、多くの人々は何が行われたかも理解できない。ストーリーはゼルダに振り回されたあげく封印されし者を倒すといったもので、世界を救うというような高揚感は無い。リンクは人知れず世界の危機を救うという正体不明のヒーローの役割だ。

また、リンクが地上に用意されたマップを空から降りてクリアしていく構成は、世界観の構成としてはいかにも淡泊で、プレイヤーに作業感を植え付けてしまう結果となった。ゼルダの伝説のゲームシステムと組み合わさるとそれが顕著になる。セーブのしやすさとマップ選択の簡便さはいつでも遊べるように時間のないイマドキのプレイヤーに配慮したのだろうが、物語に没頭できるような深みを感じさせず今回ばかりはうまく調和しているようには思えなかった。

以上、ざっと魅力を無くしていると思われるものを上げてみたが、もちろん人によって様々に評価がわかれるだろう。ただ、面白かったから人に勧めたいというほどではなかったのが残念だ。遊ぶためには多大な労力が必要になる。それを面白いと思えるプレイヤーばかりではないことは、ファミコン世代の僕としてはひしひしと感じている。

Wiiリモコンありきの全くの新作を遊びたいとは思うが、おそらくもうそんな時間はないだろう。落ち着いた先はパーティーゲームであり、両手で持つコントローラーの優秀さを思い知らされる結果となったのは、制作者としては本意ではないはずだ。

だからこそ今作のゼルダの伝説はすばらしい挑戦であった。それを否定してはゲームの可能性を狭めることになるし、プレイヤーとしても不幸なことだ。

もっとクリア条件がゆるく、敵を倒すと経験値がもらえてレベルが上がるようなシステムで何度もマップに挑戦したくなり、中ボスクラスの敵がたまに現れて色々なアイテムを駆使して倒すようなゲームだったら、Wiiリモコンを振り回して楽しく遊べそうなのだが、それはゼルダの伝説ではないだろう。しかし、そこまで挑戦して欲しかった。
ゲームシステムをWiiリモコンの方に近づけて欲しかった。

もうこれでWiiリモコンの挑戦が終わるとなると、ちょっと寂しいのだ。