Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

結局Twitter

ホームページって言うものを、それこそHTMLを書いて作っていた時代があった。デザインも自由、flashを使ったおしゃれなタイトルも自由、マウスオーバーにより表示の変わるメニューや音楽を流すことも可能だった。そういう意味で言えば、敷居が高いとはいえ多くの人がホームページ作りに携わり様々な趣向を凝らしたページであふれた。

もちろん、それらは今でも存在するし作ることは可能である。しかし、人々は気づいてしまった。実はネットというものはつながらなくては意味がないということに。どんなにflashを使った華々しいページを作ったとしても、それだけで訪問者が増えるわけでもない。人はきれいなflashを鑑賞するために閲覧するわけではない。一番大事なのは更新頻度、そして「つながっていること」である。

一般人にとって訪問者の数というのはページ作成の意欲にはなるがそれ以上でもない。それだけでは沿道でギターを弾いたり絵画の個展をひらいたりしたようなものだ。客が多い方がうれしいが自己満足で終わってしまうだけである。
大事なのはその先、実際に来てくれた人々の感想や客との語らいであったのだ。

まったく知らない人間が出会う場面があるとしたら、それは時と場所を共有することである。本来物理的に限定されてしまうものが、ネットによって無限に解放されてしまった。永遠に時は流れ、出会う場所は無限に存在する。この特性に最もマッチしたのがTwitterである。結局、今までのホームページだって更新はほとんど文字情報、レイアウトは新聞記事型から掲示板・wiki型へ移った。素人の労力を最低限まで押さえ、かつ更新頻度を上げる方法はと言えば、正直Twitterを超える形態は考えられない。2chで個性を溶かしてアノニマスの一員になるのもいいが、自分が確立できなければ人とは出会えない。まあ、その分独り言のむなしさは2chよりも多く感じるけれど。

ブログもTwitterも独り言ではあるが、もともと独り言をつぶやくためにあるTwitterのほうが気分的にかなり楽である。しかもそれはフォローしている相手とお互い様。気が向けば返信すればいいというのも楽。
というわけで、リンクにTwitterを加えました。掲示板は使われないので廃止。ま、個人の掲示板はもう使われないでしょう。集団のお知らせすらTwitterで事足りるでしょうし。
最低限の個人の確立と最低限の労力。これでダメならネット活用の情報発信は向いてないと言い切れる。そういうツールがTwitterではないか。

こういうツールが出てきてしまった以上、ネット利用はTwitterありきになってしまうんだろうなぁ。スマホ需要も購入者がガジェット好きだけではなく利用目的を明確に持てた人が増えたからだろう。情報端末ツールとしてスマホを持つ理由がTwitterでもまったくおかしくない。ネットショッピングの利用でPCを買う人のように、性能を何十分の一しか使ってないとしても、明確な目的があればそれは必要なものだから。女子高生がiPhoneとか、誰が想像したことか。小難しいアプリを使わなくたって立派に活用する。そういうやり方を認めるのが情報端末として大事であったということだ。どうやら、Twitterは一過性のものではなさそうである。

ゲテモノ食いの時代

趣味や嗜好の世界で一般的な価値観から外れているようなものを下手物(ゲテモノ)というが、ひとつの分野が極まってくると新しい価値観を求めてそのようなものを持ち上げるところがある。

王道というところに確かな価値観があり、それさえあれば特に不自由するところなどないのに、人はあえて別の無価値で危険なものに興味を持っていく。それは強制されたわけでもなく利己的なものでもないのだが、理不尽な衝動というものに人間はあえて身を任せる。

普通の人、そのものにさして興味のない人にとってはあまりにも奇怪で醜悪であるにもかかわらず、普通ではない人、そのものに入れ込み飽き足らない人にとっては美しく至高のものになる。空腹こそ最高のスパイスという言葉は料理人の努力を無にする暴論ではあるのだが。

なぜこういうことを書くかというと、職場にいるアニメ好きの若い人と話して感じたからである。

昨今のアニメ・ラノベ界隈は華やかで熱気があり、しかも玉石混淆という状況は、ファミコン初期のゲームソフト群に似ている。ひとつヒット作が出れば似たようなゲームを乱発し、作品のクオリティというものに頓着することなく一発当てようと様々な業界から発売が相次ぐ。それは高度な技術を必要とし、品質管理が徹底している工業製品とは比べられない嗜好品としてのゲームの弱点でもあるのだが、しかし売れてしまえばそれでおしまい、買った方が悪いという状況が当たり前のように存在し、子供達は涙をのんでいわゆるクソゲーというものと付き合ってきた。もちろん、本質は現在でも変わっていない。

それでも、ファミコンはまだゲーム文化が花開く黎明期であり、そのような状況が許されるともなく受け入れられた時代だった。ゲームに何ができるかを天才たちが模索し続けて新たな娯楽を作り上げる熱気に満ちた時代である。現在の虚飾に満ちて肥大化したゲームにはない鋭さを持ったゲームがむしろ多かったように思う。ジャンル分けというものが意味を持った時代でもある。

しかし、アニメは違う。アニメは古くから存在し文化として日本に根付くほど作られ続けた。作品としてのクオリティを評価する土壌もきちんとある。一部のオタクの嗜好品というイメージはついになくなり、日本文化を代表するものになった、らしい。

そこで、アニメを観ようと深夜にテレビをつける。半裸の少女が武器を片手に少女に斬りかかる。キャラクターがネットのスラングをしゃべる。少女の裸体を隠すため画面を覆い尽くさんばかりの大きなぼかしが使われる。一体なにが起こっているのか、文字通りわからない。

若い人はさぞかしそのようなアニメを楽しんで観ているのだろうと思ったら、案外そうでもないらしい。「面白いアニメなんてないんですよ」と言う。じゃあなんで観ているのと聞くと「いいところを見つけて楽しむ」との事。

つまり、面白いから観るとかつまらないから観ないというものではないということである。判断基準が違う。

彼はラノベもどの新刊が出るのか専門誌を読んで調べ、マンガ雑誌もジャンプやマガジンぐらいしか知らないおっさんとは違い、コンビニには置いていないマンガ雑誌も買って読む。言わば、オタクのサラブレッドである。年も25歳ぐらいで、まさに売る側が仕掛けるターゲットそのものであると言える。しかし、当の本人がある意味冷めているようなところがあるのだ。

「ストーリーはほとんど出尽くしている」「面白いものなんてもう作れない」などとどこかの巨匠みたいなことを言っている。作り手側がそのような愚痴を言うこともあるだろうが、受け手がそのようにあきらめているというのはどういうことなのだろうか。

それは一種の飽和状態であり、飽食の時代が生み出すB級グルメの流行なのであろう。表現が先鋭化し内容が細分化することによる王道の否定。同じ事の繰り返しに飽きた王様の奇行。しばしば歴史に散見される異常行動の原因である暇つぶし。そう、アニメは暇つぶしの行きつく先に選ばれているのだ。

およそ把握することのできない大量の作品、しかもラノベ・マンガ・アニメというジャンルの違うものをすべて消化しようと思ったら、舌もおかしくなるのはしょうがない。正当な評価といったものが意味をなさなくなり、個人の感覚がすべてにおいて優先されてしまう。そういう状態になれば価値というものは他との差異に収斂され、奇抜なものがもてはやされるようになるのは明白である。

まともな評価をするに値しない文化、それがアニメであるとすれば、日本文化の象徴として語られることは大いに皮肉を含んでいる。自由と平等を求めると無価値に行き着くということを証明してしまっている。

アニメ好きの彼は何も評価せず、すべてを受け入れ、面白いところを見つけて大量の作品を消化していく。それが今の若者のおたく文化なのかどうかはわからない。ゲテモノ食いを続けてバカになってしまった舌で、いったい何を求めるのだろう。いや、何も求めないというところに新しい価値観があるのかもしれない。

あけおめ2011

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

かろうじて新年の挨拶だけは続けようとは思っていますw

個人の情報発信の場というのはどんどん軽いものへとシフトしていて、とうとう一言コメントの羅列というところまで来ました。ケータイのメールをリアルタイムに表示して、尚かつ他人のものまで読めるようにしたようなTwitterは、今情報交換の場として利用されています。

基本的にはこういったツールは利用する側の労力が必要になるので、やる人はやるけど面倒くさい人は全くやらないという存在になっています。情報がそこまで必要なのか、他人の言っていることがそんなに気になるのか、そういうことに疑問を持つ人は恐らくやってないでしょう。自分も今のところはやってないです。

情報の即時性というものに敏感な人々にとってはこの上ないツールなのでしょうが、そこまで自分の世界をネットに預けていいのかという思いもあります。

ゲームの世界もソーシャルゲームが流行し、ネット上に自分を預けるタイプのゲームが増えてきました。一時期オンラインゲームの中毒性が話題になりましたが、場所と端末を選ばないケータイゲームは常に半身をネット上に預けているような感覚を与え、ゲームというよりも人とつながる事に対する渇望のようなものを満たす存在として利用されています。昨今は無料とうたいながら実はアイテム課金など有料であることに気付かず高額な利用料を請求されてトラブルになることも増えています。どうしても僕のようなファミコン世代は胡散臭い印象を持ってしまいます。

情報というのはその人の存在そのものを象徴するようなもので、本来は人間に付着し現実的な交流の場を形成するものであるはずが、身元不明の情報が不特定多数の人々に行き渡り現実感を伴わず利益を生むという錬金術的な状況になっています。わざわざネット上に自分の存在を預け現実感を喪失しておきながら、地に足の付いた人生を送っている人を指してリア充と呼ぶというのは、自分をわざと非難したいだけなんじゃないかと勘ぐりたくなります。情報過多が人の人生を浸食して食い散らかしているさまをまざまざと見せつけられているような気分です。

果たしてこれが幸せなことなのかどうかというのは、現在利用している実験台のみなさん、言い換えれば人生のテストプレイヤーの方々が証明してくれるはずです。浪速のことは 夢のまた夢と散っていくんでしょう。それもまた人生ということでしょうか。

今年はやることをやるということで、まあなんとかしたいなと思ってます。