Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

 主張するゲームの功罪〜メタルギアソリッド2

主張するメディアというものはいろいろある。新聞、テレビ、ラジオ、マンガ、映画など、メディアというものは全て何かしら伝えて側の主張というものが入る。人が何か意見をしたりものを作ったりするときは、必ず意図があるはずだ。意図もなく記事を書き、意図もなくマンガを書くということはありえない。そういう意味から言えばいわゆる"ゲーム"と呼ばれるコンピューターゲームは、作り手の"意図"が入っていることは当然であろう。ここで問題になることは、その"意図"がなんであるか、である。

ゲームというものはその存在意義から言ってプレイヤーを楽しませるためにある。少なくとも創世記から近年までのゲームは全て楽しませる意図を持っていたはずだ。そうでなければゲームは売れず、そもそもユーザーが手に取る意味がない。しかし、RPGと呼ばれるゲームが登場してから、ゲームと呼ばれる創作物の傾向が変わった。RPGとは「ロールプレイングゲーム」、つまりプレイヤーが主人公という役割を楽しむこと。ここで重要になることは作り手側の意図するキャラクターをプレイヤーが動かすという"主人公とプレイヤーの乖離"が生じていることだ。そして、この主人公とプレイヤーの乖離を"意図的"に主張したものが、「メタルギアソリッド2」である。

では、なぜ「メタルギアソリッド2」は"意図的"に"主人公とプレイヤーの乖離"を用いたのか。クリエイター・小島秀夫氏の思いとそのストーリーから、ゲームに込められた"意図"を考える。

ゲームの概要

メタルギアソリッドとは小島秀夫氏作の"見つからないように目的を達成する"ことをテーマに置いたアクションゲームである。ゲームが敵と呼ばれるものを倒すことによって成り立っていた状況に特殊な存在として登場した人気ゲームである。

核を発射できる大型兵器"メタルギア"を巡る陰謀。正義の味方ではなかった主人公、深まる謎とプレイヤーを裏切るストーリー。これらがゲームというものに小説や映画に見られる"歯ごたえのある世界"を作り出す要素になっている。

ゲームシステムに目を向けると、完全に3D化された世界は単独潜入という息苦しさを醸し出しており、敵のリアルな動きはゲームの記号化された敵の範疇を超え、銃弾が撃ち込まれた瞬間に吹き上がる血しぶきはそこに人間がいることをプレイヤーに想像させる。そこには現実にそうなるであろう世界が広がっていて、バイオハザードから続いた箱庭の再現はほぼ極まった感があるほどだ。かくれんぼを楽しむ世界は整っていると、そう言うほうがしっくりいくだろうか。

メタルギアソリッド2」における最も前作と違うところは、主人公が雷電と呼ばれる"ど素人"であるところだ。つまり、今回の単独潜入が彼にとって初の実践である。彼は潜入シミュレーションによって実践さながらの経験を積んではいるのだが、"現実"に潜入することは初めてなのだ。この辺りがストーリーに隠された意図の伏線になっている。

ストーリー解説

詳細にストーリーを検証していってもただの紹介にしかならないので、最も重要であるラストを考えていこう。

雷電と呼ばれていた者、それは結局「誰」だったのか。
終盤の展開はゲームの世界を離れ、形而上世界を呈してくる。すなわち、これまで築き上げたお話を放棄したのだ。

メタルギアを巡る攻防、オセロットの不可解な行動、ソリダスの目的、そして真の黒幕…。これまで物語を構成していた要素をすべて嘘だと言い放った。それは第二のソリッドスネークを創り出すためのシミュレーションだった。

一歩離れてみればこれはなんのことはない、このゲームをやっているプレイヤーそのものの状況を指しているのだ。

必死に雷電に成り代わり、与えられたミッションを黙々とこなす。言われたままに選択し、言われたままに行動する。それはゲームだから、と、言われるまで気づかないプレイヤーに、ゲームのなかから指摘をしたのだ。"これはゲームだったのだ"と。

「全て嘘だというのか、ローズ!」

雷電の彼女への叫びはそのままプレイヤーの叫びとなり世界は急速に崩壊していく。作られた世界は全てを白日の下にさらし、重大な目的のために英雄を気取っていた雷電を(プレイヤーをも)あざ笑う。誰でもソリッドスネークになれる、誰でも英雄になれる。しかし、それは"君自身"ではないのではないか…。

ドッグタグに刻まれた名前は第二のソリッドスネークに対して付けられた名前だ。プレイヤーはこの名前を自分の名前とし、雷電を操作してきた。雷電にとっては、いわば作られた自己である。

エンディングで雷電はこのドッグタグを投げ捨てる。彼はプレイヤーによって作られた虚像の自分を捨てたのだ。プレイヤーと雷電は決別し、新たな世界を生きることを決断する。少なくとも自らが考え、選択していく世界へ…。

ソリッドスネークは再び走り出す。彼はまた浮かび上がった謎を解明するべくゲームの世界を疾走する。無限バンダナを巻いた英雄は、役目を終えるかのようにプレイヤーからその姿を消した。

真の黒幕

通信を通して指示を送っていた大佐はAIプログラムだった。雷電の彼女であるローズマリーでさえ任務のために彼女を演じていた。全部作り事、全て嘘。そのことは上で書いた通りである。

黒幕の一応の名前として「愛国者達」があげられている。「あかさたな」とも。しかし、これは何でもよかったと思う。たいした問題ではない。要は、生きている私たちを縛っている存在を指し示したかっただけなのだ。

今回の雷電もそうであったように、情報によって人はあたかもわかったかのような振る舞いをしている。自分の体験に裏打ちされたわけでもなく、その意味を大して理解していないのにもかかわらず、人はあらゆるツールを用いて情報を集めることができる。無意味な単語の羅列、めいめいただわめくだけの論理なき討論、ただただ積み上げられるだけの正義。なにも作り上げることができず、自己主張しかできない哀れな現代人に成り代わり、論理的な思考で世界を統括していく存在、それが真の黒幕である。

虚像のプレイヤー

このゲームは意図的にプレイヤーと主人公を乖離させることよってクリエイターの主張を表現したと言える。プレイヤーを正義の味方にし続けてきたこれまでのゲームとは正反対なわけだが、20世紀末はこのような方法論が各メディアで行われていた。今思うと"自分探し"から"自分探し否定"へ抜ける道程のようだったが、頭の中だけで考えるメタ的な表現方法がエヴァンゲリオンを始め流行り始めた時期であった。

クリエイター・小島秀夫氏は前回のメタルギアソリッドで遺伝子の支配からの脱却を表現した。人間を構成する遺伝情報は自己の全てを構成するわけではない、自己とは本人が生きる世界と戦っていく中で獲得するものであると。それはビックボスの遺伝子を持つ人間達を殺すために作られたウィルスの"運搬者"としての役割を打ち破ったソリッドスネークの生き様に現れていた。

そして今回。
小島秀夫氏はゲームプレイヤーにケンカを売ったのかもしれない。庵野秀明のように。

クリエイターによって作られた"居心地のいい世界"。それこそプレイヤーが求め、そしてクリエイターが与えるべきものであるはずだ。居心地の悪い世界のためにわざわざ金を払うバカはいない。現実のつまらない世界に飽き飽きするからこそゲームを買うのだから。しかし、小島秀夫はプレイヤーに訴えた。これは虚像なんだと。

それを表現するかのように、終盤になるにつれてわざと"ゲームっぽい"表現が多用される。あまつさえ、ソリッドスネークはバンダナを巻いてこう言う。

「無限バンダナだ」

無限バンダナとはクリアのご褒美としてプレイヤーに与えられるアイテム。弾が無限に使えるようになるもので、登場人物が言う言葉ではもちろんない。いわばお約束なのだ。

あとの展開はもう笑うしかない。雷電は裸にされて動き回り、渡された武器は日本刀。もう完全な"ゲーム"になってしまうのだ。出てくる敵をひたすらなぎ倒し、最後のメタルギアレイとはひとりで何機も相手にしなくてはならない。これはまるで、"こういう展開を君も望んでいるんだろう?"とクリエイターにバカにされているようなものだ。むろん、意図的であるのだが。

所詮は遊ばせてもらっているに過ぎない。ゲームの中で英雄を気取っているに過ぎない。しかも、全世界で何百万本も売れているのだ。それは何百万人も英雄が生まれていることを意味する。これを指して、「ソリッドスネーク育成ゲーム」と大佐は言っているのだ。

小島氏は明確に言う、"プログラムに沿うだけでいいのか?"と。

与えられたミッションを黙々とこなし、何かのコピーとして生きることが君の望みなのか。雷電は最後にドッグタグを捨てたのだ、君も遊ばされるだけでいいのか、と。

ソリッドスネークはあくまでゲームの住人である。しかし今作は雷電である。シミュレーションによって作られ現実の戦争も殺し合いも知らない。泥臭い人間関係もこの使命がどのような意味を持っているのかも知らず、与えられた目的をこなすことを至上の幸福とするかのような存在なのだ。イコール、プレイヤーである。

自由の子供である君。しかし、その自由は虚像である。しかも虚像であることを知っていながら自由だと叫ばざるを得ない存在なのだ。雷電は気づいた。君は気づくのか。

残された生き様

後世に残される情報は遺伝子だけではない。文化、慣習、思想、文学…。もっと人間くさい表現をすれば"生き様"。ソリッドスネークが残したものはまさにその生き様だった。前作から通して表現されるその生き様はあらゆる敵との戦いと交流の中でプレイヤーに提示されてきた。まったく平和で命の危険など微塵も感じていない現代の日本人にとって、メタルギアソリッドはやはり架空のゲームでしかない。しかし、そこで息づいているキャラクター一人一人は私たちに何かを残そうとしているのかもしれない。

ハードボイルドの世界をゲームに落とし込んだメタルギアソリッド。自己崩壊という形でしかエンディングを向かえることができなかったが、それはプレイをしている大人や子供がテレビの中の出来事としてしか捉えざるを得ない現実離れした世界だったからだ。

しかし、9・11のニューヨークにおいてそれは崩壊した。テレビの中の出来事は現実のこととして何千人もの人の命を奪っている。人殺しをゲームとして楽しむ、この点にもやや小島氏は引っかかったのだと思う。だからこそ、単独で世界を破滅へと追い込むメタルギアの情報をつかむため、彼は命をかけて戦ったのだ。それをシミュレーションなどとガキの遊びと一緒にされてはかなわない。終盤の茶番劇は彼一流のジョークと捉えるべきである。

ゲームが与える影響というものは、最近特に問題になっている。殺し合いをシミュレーションするということの意味をもう一度考えてもらいたいという小島氏の思いは、このメタルギアソリッド2で果たされたであろうか。

主張するゲームの功罪

主張するゲームを否定はしないが、それはゲームというルールを守ることが前提だ。今回のメタルギアソリッド2のように話を壊してしまうのは後に続かないので厳しい。

結局のところ、プレイヤーが求める物とクリエイターが求める物とのギャップが不幸な結果を生むことになる。終盤の展開を求めたプレイヤーはほぼ皆無だと思うし、それを許容できるプレイヤーも限られてくる。特に、前作の世界観が好きだったファンにとっては物語を壊されたことに腹を立てたことだろう。作品とは発売された時からクリエイターの手を離れてしまうのだから。

命を賭けて世界を救う為に任務を果たそうとする主人公。プレイヤーはそんな"かっこいい状況"に浸りたくてゲームをする。たった一人で多くの敵が待ちかまえるアジトへ潜入し、最後は敵を全滅させて戻ってくる…。ハリウッドの定番中の定番であるストーリー展開にわかっていながら没入してしまう。それをプレイヤーは求め、クリエイターは拒否した。

スネークはスネーク、雷電雷電、そしてプレイヤーはプレイヤー。ゲームの世界と現実の世界と、それぞれ生きる世界は違うけれど、出会えたことは幸せであったと思う。9・11のビル崩壊とともに、現実の世界もきしみをたてて崩れつつあるのだが…。