Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

 エヴァンゲリオンの衝撃〜最期の自分探し(2000/10/30)

エヴァンゲリオンの世界

すでにパンフレットに用語集という形で説明がつけられ謎というものはほとんどないので、なるべく事実に即して紹介したいと思う。これはあくまで物語でありエヴァンゲリオンの世界だけの設定であって、おはなしに過ぎないことを理解しておくことが重要である。

まず、この物語の中心であるゼーレによるサードインパクトとはいったいなん だったのかといった問題だが、これはエッセネ派の生き残りをモチーフにした、ゼーレによる救済の儀式といえる。エッセネ派とは極端な禁欲主義ユダヤ教の一派であり、死海文書を残したとされている、今風にいえば怪しい宗教集団にたとえられる。死海文書はグノーシス主義と深いかかわりを持ち、この考え方は現世は悪魔によって創造されたとするものである。

つまりゼーレの考え方は、現世の苦しみや悲しみは全て悪魔による統治が原因である、だからサードインパクトにより悪魔の支配から開放され神に救済されなければならない、そのための死海文書であり、そのためのエヴァンゲリオンである、と。また、ゼーレの議長キールは脊髄から下が全て機械化されていた。これはエッセネ派の生き残りが現代まで生き延びていることを意味する。このエッセネ派は俗世間から分離し、当時の社会に対抗する「対抗社会」といったものを作り生活していた。現世を否定し、現実は悪魔による統治だと考え、神による救済を祈る。どこかで聞いたことがあるような…。ゼーレはこう言っている。

「だが、我らの希望は具象化されている」

「それは偽りの継承者である黒き月よりの我らの人類、その始祖たるリリス

「そして正当な継承者である失われた白き月よりの使徒、その始祖たるアダム」

つまりサードインパクトとは、正統な継承者である第一使徒アダムによる地 上の支配である。人類補完計画が「出来損ないの群体として行き詰まった人類を、完全な単体生物へと人工進化させる計画」としているのは、18番目の使徒ヒトを絶滅させて始まりに戻すことだった。ゼーレの言葉、

「始まりと終わりは同じところにある。すべては、これでよい……」

第1番目から始まった使徒は、第18番目ヒトによって終わりを告げる。そして、また第1使徒アダムへと地上の支配を譲り渡す。全ては始まりにもどる…。

そして、碇ゲンドウ。かれはこのようなゼーレの計画を利用しようとした。で は、どのような計画であったのか。それは人によってヒトを作り出すことだった。不完全な人間、互いに分かり合えず衝突を繰り返し、ときには殺しあう存在。そんな世紀末に発見された巨人、アダム。人間は神になれる可能性を手に入れた。その野望の源は、人生への絶望だった。生きることへの苦痛だった。そして、無への回帰だった。人は考えた、完全なる人間が作れるのではないか? このままでは人は滅びる、ならば人類を完全なるものに変えることが人類を生き延びさせる方法ではないのか。アダムを真似て作り出したエヴァンゲリオン初号機はその肉体をリリスから得ている。そして捕食によるS2機関の獲得。初号機は永遠の生命を手に入れたといってよい。新たな生命体の誕生、それがアダムとリリスの融合によって実現するのだ。

「アダムとリリスの禁断の融合だけが、ユイの元へゆける」

ユイは永遠の命を求めたのか、自分の魂をエヴァンゲリオン初号機に宿らせる。彼女は使徒と戦っていくうちにS2機関を手に入れ、ほぼ不死の肉体を手に入れた。しかしゲンドウはヒト、つまり有限の肉体しか持ち得なかったのだ。アダムとリリスの融合は悪魔を生み出すと伝えられているが、エヴァの世界では全ての生命の母体としてリリスの存在がある。そして、使徒はリリスから発生した存在。むろん、ヒトも第18番目の使徒。第1使徒がアダムだから、アダムもリリスから生まれていることになる。全ての生命の母体リリス、そのコピーである初号機。アダムの体を埋め込んだゲンドウ。そしてリリスとの融合…。

すなわち、旧約聖書に書かれているアダムとエヴァにゲンドウとユイが成り代わり、ヒトの祖となる…。ゼーレはこう言っている、

「神に等しき力を手に入れようとしている男がいる」

「我らのほかに、再びパンドラの箱をあけようとしている男がいる」

「そこにある希望が現れる前に、箱を閉じようとしている男がいる」

ゼーレの希望はアダムの復活。しかし、それがゲンドウではいけない。完全なる裏切り行為である。

地上と地下でそれぞれの儀式が始まる。地下ではレイがゲンドウを裏切った。リリスの魂が宿っているレイはゲンドウから胎児のアダムだけを奪いリリスに帰る。胎児のアダムとリリスの融合は行われ、最初の人間アダムとなった。地上では初号機が儀式により依代とされロンギヌスの槍を呼び寄せる。ロンギヌスの槍は初号機に取り込まれ、初号機は生命の木へと還元された。ロンギヌスの槍とは手にしたものが世界を手に入れられると伝えられるもの。生命の木は、そこになる実を食べると永久に生きられると伝えられている木である。初号機はまさに神に等しき存在となった。いわば、この世を創造した宇宙そのものである。

その初号機に乗る主人公シンジ。彼は何を願うのか?
自分の価値、生きる意味、親への不信感。大人の言う通りに生きることへの依存、それに対抗できない情けなさ。ついにゼーレによる救済の儀式が始まった時、エヴァンゲリオン初号機に宿るユイの魂はシンジに問う、

「今のレイはあなた自身の心、あなたの願い、そのままよ。何を願うの?」

彼は思い通りにならないつらい現実に耐えることができなかった。信じては裏切られ、求めては突き放される、そんな現実に嫌気がさしていた。彼は子供のころを思い出す。ひとり砂場に置き去りにされ、家族の温かみを感じられなかったことを。好きな女性に相手にされずふられたことを。そして彼は…相手にされなかったアスカの首を絞めた。彼の願いは世界の破滅だった。彼の願いは叶えられ、人々は自らの願望が叶うことで他人を必要としなくなったことから自己を失い、ゲンドウは初号機により食べられ(シンジとユイの恨みであるとゲンドウは理解している)、世界は人の個性を否定するかたちで、生命の木となった初号機を取り込んだアダムに統合されていった。ゼーレの望む通り、世界はまた始まりへともどっていった。しかし…シンジは言う(希望という言葉を受けて)、

「だけどそれは見せかけなんだ。自分勝手な思いこみなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっとつづくはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。僕を…見捨てるんだ。」

「でも、ぼくはもう一度逢いたいと思った。そのときの気持ちは…本当だと思うから」

シンジは他人に逢いたい気持ちから自分という存在を認識した。そのことにより、再び思い通りにならない現実が支配しようとも。
シンジは言う、

「父にありがとう、そして…母にさようなら」

彼は自分を守るエヴァンゲリオン初号機を捨て、生きることに決めた…。

海辺にシンジとアスカが横たわる。シンジは横にいるアスカに対して敵意をむきだしにして首を絞める。他人は自分を拒絶する存在でしかない、ならば殺してしまえというように。アスカは意外にもシンジに対して情けをかけるように、ほっぺを軽くなでた。拒絶されなかった他人に対してとまどいと感激により涙するシンジ。そんな彼を見てアスカは、

「気持ち悪い」

シンジの物語は現実を引き受けることで終わり、始まるのであった。

シンジの戦い

上の説明は、ほとんど最終話中心に書かれている。これはなぜかというと、エヴァンゲリオン自体がひとつの「論文」のような形態になっているためで、結論を紹介するのが一番わかりやすいからだ。ではなんの論文だったのかといえば、大きくは「自己の自立」がテーマであろうと思われる。ただ、広げすぎた物語の要素が理解を煩雑にさせている部分もあって、なにが言いたかったのかが明快ではない。いや、人間の物語を扱う以上、いろいろな要素が絡むのは当たり前か。科学に踊らされる人間の愚かさ、家族・恋人・友達のコミュニケーションの複雑さ、ロボットアニメ自体への皮肉、ファンへの皮肉、そして生きることへの疑問。しかし、それらは物語を彩る飾りであって主役ではない。消極的な主人公を採用した時、平凡な自分とヒーローとの格差に悩むシンジの姿が浮かんだのだろう。ヒーローになれなかった主人公が、物語が終わった後に生きていけるのかが主題になっていく。それは、小説「罪と罰」で苦悩したラスコーリニコフを思い出させる。

結局は、ヒーローになれなかった。そんな大それた存在にシンジはなろうともしなかった。いや、むしろ、制作者側がヒーローというものを創れなかったと言っていい。それは使徒迎撃専用都市において、地下に潜ることにより民間人の生命が確保されるなど、ヒーローは人の迷惑のかからないところで戦ってくれと言っているかのような設定からも伺える。そこには人のために命を賭けて戦うヒーローに対する冷ややかな視線が感じられる。

また、絶対的正義に対する疑心暗鬼もある。何にだって良い面と悪い面がある。敵にだって言い分があるじゃないか、と。悪さをする敵を懲らしめ善への目を開かせるシナリオを、恥ずかしくって書けないのだ。それは、読者や視聴者が主人公に感情移入をする条件を違った形で体現した。つまり、ヒーローなど信じることができないキャラクターをそのまま主人公に据えたことだ。そして、ヒーローになることをことさらに拒むシンジの姿は、現代のアニメファンの常識に一致した。むしろ、ヒーローにあこがれるケンスケなどを脇役として表現することに終始した。

エヴァンゲリオンに関わるものはすべて不幸になる。トウジは足を失い、リツコの母は命を失う。パイロットは言わずもがな。それは、平和を実現する困難さからくる不幸ではない。何かを成し遂げるための産みの苦しみではない。「関わること」それ自体が不幸なのだ。使徒から地球を守る、その願いは一部の人間達の建前に使われる。むなしく従う少年達の悲劇的な状況が、信じられない大人、信じられない他人への不安と絶望を作り出し、目的ではなく手段に没頭する子供達を作り出した。ヒーローでもなんでもない、大人の言いなりになり与えられたおもちゃで存在意義を作らざるを得ないシンジ達は、やはり「哀れ」である。

ここに「ヒーロー」は死んだ。自分の意志で世界を救うわけでもなく、戦うことに意味を見出してもいない。言われるがまま、やらされるがまま。だが、一人の人間として「自我の目覚め」を示していく。それが、シンジがゲンドウへ向かって言った言葉「ぼくはエヴァンゲリオン初号機のパイロットです!」である。これはゲンドウへ服従を誓ったわけではない。誰かに言わされたわけでもない。仲間が敵に壊されて(殺されて)いく、その状況で自分のやれることを見出したのだ。

つまり、ヒーローとは不特定多数の「多くの人々」のための戦いをする存在だが、彼は目の前の仲間のために初めて自分のやれること、「存在意義」を見出した。それはヒーローとは違う「直に結果のわかる戦い」だった。そこに等身大の自分がいた。せいぜい仲間を守ることぐらいしかできない自分がいただけだった。父はそれを見届ける。微動だにせず、目の前で。思えばゲンドウは息子を駒のようにしか使っていなかった。いや、目的のために非情な指揮官を気取っていただけだったのかもしれない。血しぶきを浴びながら息子の戦いを見守るシーンなどは、停電の中パイロットを待つシーンなどからもれ出てくる親の愛を感じさせる。生身の人間、当たり前の姿、そんな光景をエヴァは見せる。そこにこそ人間としての生き方があると。完全なる人間、不安も絶望もない世界を夢見ることはやめよう。結局はいつの時代も悩みは絶えず、男と女は分かり合えない。だが、それを分かろうと努力する、その姿こそが人間としての当たり前の姿なのだ、と。

自分探しの終焉…そして

20世紀末に流行した、アニメやゲームのテーマにされた「自分とはなにか」という問い。それは、「新世紀エヴァンゲリオン」において終焉したといってもよい。どんなに自分を他人に重ね合わせても(アニメのキャラクターでも)、しょせんは当たり前の自分がいるだけだ。つまらない自分を忘れるためアニメや漫画を見つづけて、その世界に浸りきることにいくら時間を費やしても自分は自分でしかない。その「自分」であることの重みは相当のものである。自分の存在を認めることはこの上ない苦痛であり重荷であるが、だとすれば自分探しの旅は希望のない放浪になりかねない。

「気持ち悪い」自分がいることにシンジは気がついたが、同時にすべての始まりである出発点に立つことができた。あとは足を前に運ぶだけだ。今後、アニメやゲームは「生きることの正しさ」ではなく「いかに生きるか」を表現していかなければならないだろう。マンガの世界では「ワンピース」や「遊戯王」など、一見古臭い勇気や友情をテーマにしたものが売れている。しばらく読まなかった少年ジャンプを読み出した人も多いのではないか。

現実にすれた子供たちが勇気や友情に「寒さ」を覚えた時代から、現実が寒すぎて「温かみ」を求める時代に変わりつつある。作り手が少しかじった哲学や心理学を用いて、なんだかわかりにくくて気持ち悪い作品を作るのは時代遅れである。そういう意味で、エヴァンゲリオンは「自分探し」が許された最後の大作であったと思う。