Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

ゲームを買う条件

嗜好品であるゲームは常に評価の的にさらされている。
しかし、小説や映画ほどの真剣さでは語られないことの第一はあまりに多重構造なそのしくみゆえだ。

ゲームとは何か。この問いすら無意味になっている現在のゲーム業界において、その評価というものを決めることは不可能に近い。よくあるグラフィックや音楽、ストーリーなどの項目は個別的には成り立つかもしれないが、そのゲームを決定づける評価にはなり得ない。つまり、部分の総和は全体ではないということだ。

もうひとつの原因は人間が操作しなければならないことである。
これは他の芸術作品と一線を画す。ゲームはそれ自体として存在し得ない。プレイヤーによって操作されて初めてその存在をこの世に現すのだ。きわめて感覚的なゲームの面白さというものは、文字通りやってみなければわからない。それぞれ人の感性に訴えるゲーム性は一般化できないのが当たり前だ。

しかし、といっていいだろうか、昨今のゲーム業界は大作主義である。人の好みは分かれるとさんざん言っておいてあれなのだが、ゲームは売れる物と売れない物にはっきりと分かれている。ということは、やはり人の評価というものをある程度信じてよいのだろうか。なにか、ゲームを購入する側にゲームを買う条件みたいな物が知らず知らず備わっているのだろうか。

自分のまわりでも、もちろんゲームを買う人はいる。しかし、よく考えてみると似たような物しか買っていない。たまたま同じような趣味であったのか、それともゲーム自体にやはり多くの人々に買わせる魅力があったのだろうか。
…率直に言ってそうは思わない。そこには必ずゲームが持つ魅力以外の理由があるはずなのだ。

それは”慣れ”である。言い換えれば”惰性”である。
今までやってきたゲーム体験が購入する基準となっている。ドラクエが売れてFFが売れる構造である。事前に試しやりというものが大してできない状況において、まったく未知なるゲームを並んでまで購入する理由はそれしかない。自分の体験だから信用できる、前作が面白かったから今度も大丈夫だろう、その程度のものだ。そしてそれが、ゲーム市場というものの閉塞感を創造している原因である。

なぜ私たちはこれほどまでに臆病になってしまったのだろう。ゲームをやればやるほど、愛すれば愛するほど、夢の世界は狭まる一方である。ゲームに慣れてしまった私たちはもう新しいものを作り出す力をなくしてしまったのだろうか。やはりムービーがきれいだとゲームがつまらなくても保険になりますか。有名タイトルの続編だと話のネタにもなるし、大して裏切られなくてすむし安心ですか。とりあえずかわいいヒロインがいればゲームは関係ないですか。多くの人が求めていたのは保険と安心ではないだろうか。

コピーというものはどんな方法でも完全ではない。劣化していくものである。デジタルのコピーはそれ自体が死んでいる。しかし、人は安心を求めて口ではゲームもだめだとか言いながら惰性で大作ゲームを買い続ける。口を開けてえさを待ってるだけのひな鳥に批評をする資格はないのかもしれない(自分も含めて)。

ゲームは嗜好品である。それは揺るぎない。安心が欲しい人が多いならその人たちに向けてゲームをつくるのもビジネスとして当然である。

少なくとも任天堂なりがゲーム性にこだわりたいのであれば、買わなくても判断できる環境を作っていただきたい。何も知らないゲームに何千円も出せないからだ。ゲームをネットで配信するようになれば体験版も容易に配布できる。本当に面白いゲームを売りたいのであれば、広告に頼らずゲームで勝負してほしい。

もっと多くのゲームから購入する条件を当てはめたいのだ。

追記

上記の論はもはや過去の遺物と化してしまった。それはユーザーが惰性ですらゲームを買わなくなってしまったからだ。原因のひとつとしては、ネット上のレビューサイトの増大により簡単に各人の評価が聞けることにあるだろう。商業誌を通さないユーザーの生の声はどんな高名な批評家よりも説得力がある。金を出して地雷を踏んだ者は容赦がない。

しかし、買わないから面白くないというのもやはり違う。どんなに評判が悪かろうと自分にとって合うか合わないかはやはりやってみなければわからない。だから購入する条件を増やして欲しいとお願いした。今、我々は商業誌とネット上のレビューという購入する条件を手にした。しかし、風評はどこまでいっても風評である。食わず嫌いという現象は開発者とユーザーの関係を悪化させる原因になる。

頼む、頼むから一回でもやらせてくれ。ゲームを作ったその情熱をユーザーに届けたいのなら。