Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

 ゲームは何の為にやるの?

http://pcweb.mycom.co.jp/column/itshihonron/048/

このコラムの後半、コンテンツの消費特性をゲームに関して考えてみます。

「コンテンツ消費の働きは本来的に多様である」という観点から見れば、ゲームは実に多様な楽しみ方をユーザーに提供してきました。

初期に多く見られたのが動かすことの楽しみ。マリオなどのアクションゲームやスペースインベーダーギャラクシアンなどのシューティングゲーム、ベースボール・サッカーなどのスポーツゲームなど、とにかく動かせるものを画面に表示させることが目標になりユーザーはそれを楽しみにしていました。コントローラーはまさに何かをコントロールするためのリモコンだったのです。

次にテキストゲームの出現。それは文字を読むと同時にストーリーを楽しむという快楽をユーザーに与えました。この代表はなんと言ってもドラゴンクエストでしょう(ドラクエはテキストゲームだと思っています)。別にRPGという言葉に何の意味もないのですが、主人公という存在がプレイヤーと同義であると見なすか見なさないかぐらいの違いです。リモコンで操作する対象から身代わりとなって世界を冒険する対象へ。僕たちが物語の楽しみかたを見る・読むこと以外に見つけた瞬間であり、夢中になった原因です。

そしてコミュニケーションゲームへ。そこはリモコンの対象でも身代わりの主人公でもなく、自分自身がキャラクターとして存在する世界。生身の人間はオンラインゲームの世界を形作る構成要素としてゲーム内に取り込まれました。そこでの楽しみは匿名のプレイヤーとのコミュニケーション。ありもしない幻想社会に架空存在として参加し生の実感を擬似的に体験できるなんとも手軽な存在意義装置、とは言い過ぎか。

こう考えると、ゲームの歴史は「コンテンツ消費の働き」を増やす方向で推移してきたと言っていいでしょう。そしてそれは他のコンテンツに比べて圧倒的に幅が広い。ゲーム自体があらゆるデジタルコンテンツの組み合わせでできているからです。だからこそ、それがよほどの高度に到達しなければ個別のコンテンツにユーザーの目が行ってしまう。

もちろん、ゲームなのだから勝ち負けが決まる勝負事に原点回帰すればいい。ゲームとは戦うことであり負けないために知恵を働かせることと定義すれば、明らかに他のコンテンツとの差別化が図られるはずである。そういう方向でも格闘ゲームやパーティーゲームとして進化しつづけた歴史もある。

ゲームとはそれ自体が多様性を持ち、消費者に新しい消費スタイルを定義できるという特異な性質を持つ。現在はこれまで提示してきた消費スタイルが消費者に飽きられている状況と考えていいだろう。特に物語の消費は40時間もかかるゲームなど相手にしてられない。小説・映画のほうがコストも低く、回転率も早い。無駄な戦闘が理解できない人々も多いと思う。

となると、次の「コンテンツ消費における価値が環境依存的である」という問題が大きくのしかかる。明らかにゲームの価値は活況期に比べて低下している。よく言われる娯楽の多様化、通信機器の普及、主要なユーザーが社会人に移行しつつあることなどはその原因のひとつだろう。環境が変われば求めるコンテンツも変わる。そこにゲームという選択肢が残れるかどうかが業界としての最大の関心事だと思う。

ただ、僕は業界の人間でも何でもないのでそのようなことには興味がない。あるのはどのような消費スタイルを提示できるかということだ。ゲームにまだ未練があるのはもっと面白いことができるんじゃないかという漠然とした期待なのだ。まだ夢を見れるんじゃないかという希望なのだ。

なんとかならないかなぁ。