きみのためなら死ねるのか?
おそらく、本体と同時発売のゲームでここまで攻めているゲームは珍しいのではないだろうか。『きみのためなら死ねる』(以降『きみ死ね』)はただのペンタッチアクションの実験を超えた可能性を秘めているゲームだ。
そもそもさわるという行為自体が想像のコミュニケーションに具体的な対象物を与え、僕らが感じる言われ無き寂寥感を癒してくれるだろう。そしてさわるという語感から生じる甘美なエロチシズムがシルエットの女性に矢田亜希子(別に誰でもいいが)と比肩する美少女を現出させる。
単純なミニゲームの詰め合わせに彼女の気を引くパフォーマンスとして意味づけを与え、彼女にタッチするという性欲ギリギリのラインをゲーム化して華麗に切り抜ける。プレイヤーはあからさまなエサであることを承知の上で滑稽なほど真剣に食いつき、決して得ることはできない満足感をクリアの達成感で紛らわしながら、知らず知らずのうちにエンディングを迎える。
タッチという行為をストレートに表現し、悪びれもせず女性を触らせるところはあまりに潔く、逆にいやらしさを感じさせない。タッチだから女という領域は本体と同時に表現されるべきものではない。それを真正面からタッチ=エロをプレイヤーにぶつけるところがDSの懐の深さを感じさせる。
まだまだこんなものでは語り尽くせないが、『きみ死ね』はミニゲームの皮を被った恋愛シミュレーションゲームとしてその先鞭をつけたのだ。ワリオから広がる可能性と『きみ死ね』から広がる可能性は似ているようで違う。それは誰かに対しての行為という新たな領域で展開されるコミュニケーションの可能性なのだ。
そしてこの可能性に対して、希望小売価格:5,040円が払えるのかどうかをきみのためなら死ねるのか?とソフトから問われているのだ。