Nonkunのブログ

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 愛と幻想のファシズム〜とりあえずの感想

年末、ほとんど『逆転裁判』と『愛と幻想のファシズム』でつぶしてしまった。買ったドラクエは未だゼシカを追いポルトリンクへ向かうところ。恐らくトロデの寿命は尽きるだろう(笑)

さて、『愛と幻想のファシズム』についての感想を書くとなると、そう簡単にはいかない。人生を終えて始めて見えてくることもある。今の状況で読んだこと、それは意味のあることだとは思うが、それがどこまでの理解を持って読まれたかは、はなはだ心もとないのだ。

村上龍の小説はリアルを超越する。過剰と言ってもいい。それは現実を追い越してしまい、結局現実は追いつけないのだが、失われた真実、影のように現実に付き従う存在を小説の向こう側に照らし出す。『愛と幻想のファシズム』では、『システム』だと明言しているのだが。

現実の弱者、例えば就職できぬ多くの若者は社会の底辺であるフリーターとして存在している。今の社会にフリーターは欠かせぬ存在であり、手軽に雇用を確保できる貴重な存在のはずだ。そしてそれはシステムとして組み入れられ、雇用者の支配に従っている。なんの保険も認められずに。

…だが、そんなことは公に言わない。若者達の『システム』に対する反抗と、多くの大人達は受け取っている。就職もせず、好きなことをやるための時間が惜しくて簡単な労働で金を稼ぐ。ただそれだけの存在だと。

しかし、それは『システム』に抗いながら、もっとも『システム』の底辺に存在するという悲しむべき矛盾なのだ。それでも若者達は稼いだ金を渋る企業に門前払いを食らわされながらも、利益追求の企業に就職するしかない現実に直面している。運よく就職できたものはフリーターを見下し、フリーターは社員を軽蔑する。そうして貧富の差は広がり、完全に強者と弱者が分かれる時代が到来する。…しかし、それは巧妙に秘匿されている。

鈴原トウジは強者と弱者をはっきりさせるという。野生の世界では弱者は生まれながらに死ぬものだ。現代は死ぬべき弱者が生き長らえて世の中をわかりにくくしていると。

「はっきりさせたい」…その思いで相田ケンスケと始めたのが狩猟社だった。

しかし、この小説は最後まで矛盾を抱えたまま終わる。相田ケンスケことゼロが死ぬまでみることができなかった希望のようなものは、手に入れることができぬまま幻の中で消えてしまう。彼のフィルムには写すことができず、トウジからもその希望は消えてしまう。ゼロの死は、定まってしまったこと、『システム』の一部として身を捧げ、同化してしまったことによって成されてしまったのだ。

もう小説でも『神』と言ってしまっているのだが、『システム』=『神』であるとすれば、人間は永久に『システム』の奴隷として人生を全うするしかない。しかし、それにすら感激を覚えるのが人間なのだとしたら、トウジは何のために人を殺してまでわかりにくい世界を見通そうとしたのか。

『愛と幻想のファシズム』はトウジによって世の中の真実というものを洞穴からいぶりだしたような小説だ。しかし、それは若者たちの『システム』への反抗といった感情を満足させるものではない。

そもそも野生とは自然のライフサイクルを愚直なまでに遂行しているにすぎず、それは弱肉強食という『システム』の奴隷と言ってもいいものだ。その姿をわかりやすく美しいとすれば、それはすぐれた『システム』への憧れであり、『システム』そのものへの憎悪ではない。結局トウジは狩猟民族が農耕という『システム』を作るがごとく、新たな『システム』を作ることになると薄々感じ始めて、それは『ベトベトする生ぬるい雨で膨らんだ』と表現されるように、彼の内部に様々な不純物を飲み込むことになった。

これを『現実』に飲み込まれたととってもいいし、人々の希望をその体に宿した『触媒』としての存在になったと理解してもいい。

それにしても、トウジが作り上げる世界で生きられる日本人はどれだけいるのだろうか。世の中の仕組みすら見えない中で、大人は嘘つきだ、社会は抑圧だ、企業は不当だ、と叫んでも駄々っ子の泣き言でしかない。そういう人達は、どうせ権力を握ってしまえば青臭いことは何も言わなくなる。保身に走るだけだ。

ひょっとすると、トウジは人間社会もやはり弱肉強食の社会で、日本だけ呆けていることを見抜いたのかも知れない。しかしトウジはナショナリストでもなくファシストでもない。もし世界の本質に合わせようとした結果がファシズムだとしたら、それは現実を見ようとしたトウジが行き着くべくして行き着いた結果だったのかもしれない。それはもちろん、村上龍もそういう結論に至ったのだろうけど。


…ま、とりあえずはこのへんで。例えば嫌米とか最近のナショナリズムの高まりとか色々その辺りもあるのだろうけど、もうそういうロジックよりも行動で示さないとどうしようもないしね。って、今もたけしの番組でアメリカの陰謀を放送してるけど(ハテナ付けて)、こんなんもどうせ宇宙人を解剖している映像ぐらいの価値しかないんでしょう。

前も書いたけど、昔流行ったUFO特番みたいに番組を見ているときはそれなりに心配するけど、終わったら「さて、風呂でも入るか」といった感じで気にもしないことに似ている。実際、アメリカの陰謀でした、って言ってもそれでどうするのよ。「アメリカはひどいねぇ」なんて言って、みかんでも食べてるんでしょ。おそらく。

ついでに、エヴァンゲリオン鈴原トウジ相田ケンスケはもちろんこの『愛と幻想のファシズム』から取っている。そして、ストーリーすら似ていることも有名だろう。トウジは真実を見ようとし、シンジは真実から目を背けようとした。しかし、ひとつになることを拒否したことは共通している。どんな動物にも存在する自己保存の本能を失うことへの危機感といったものが、人間の最後の砦なのかもしれない。