Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

[ゲーム]nintendogs〜犬とプレイヤーの邂逅

部屋でひとり「おすわり!」や「お手!」だのをDSに向かって叫んでいるところを見られたら黙って病院に連れて行かれてしまうだろう。そこでさらに、「犬に向かって叫んでいたんです」と答えたらもっと大きな病院に連れて行かれるかも知れない。しかし、nintendogsはプレイヤーとのコミュニケーションに成功した初めてのゲームなのだ。

ゲーム性というものをいろいろ考えてnintendogsについてもゲームじゃないと開発者も言っているようだが、広義であれ狭義であれゲームという表現についてそれほど厳格になる必要はないと思う。むしろ既存のゲームと呼ばれてきたひとつの様式、敵を倒すことやブロックを消すをことをゲームと呼ぶ、その根拠を我々は示すことができるだろうか。対峙する相手がいて同じ時間を共有できる状態にあること、これがひとつのゲーム性だとすれば(プレイヤーとキャラクターは常に同じ時間を共有しているし、消えるブロックもプレイヤーと共にある)、nintendogsは特に断ることもなくゲームである。

感想とか批評とかをこのゲームにするとすれば、それはペットを飼う時に感ずることと同じになる。つまり、犬ってかわいいね♪ である。ミルクをなめてるしぐさがかわいー、畳をカリカリしているしぐさがかわいー、フリスビーに疲れて無視してるしぐさがかわいー。…終了。買う人は文句なく買うでしょう。いや、飼うでしょう。

タッチペンだからこそできたとかCGの表現力がどうとかいろいろあるけれど、それをひとつひとつ検証していって批評とするスタイルはちょっと古いかなと思っている。そして、これが新しいゲームであると言ってしまうのもどうかと思う。『どこでもいっしょ』なり『シーマン』なりゲーム性について凝った作りのソフトは多数あるが、結局ただ犬を作ったこのnintendogsが新しいゲームだと言ってしまうとゲーム性の後退を認めてしまうことになる。もちろん、そういう発展もあると思うが。

nintendogsの新しさはペットゲームにおける新規性ではなく、フィクションとの共時性であると思う。ゲームキャラクターのために食事を気にしたり、成長を楽しむといったことはこれまでにもあったが、犬という現実的な身体を持つものはなかった。ネコみたいな2本足で立つ生物でもなくしゃべる変な魚でもなく、4本足で歩きしゃべることができない普通の犬ならば僕たちは接し方を知っているのだ。

プログラムで表現されたという意味ではフィクションである犬が、まさに犬であるという理由で自然と現実世界に入り込んでくる。犬だからお腹も空くし夜は眠くなるだろうという現実世界の経験が、フィクションの世界で通用する。知恵を絞り脳みその隅っこからようやくひねり出したゲーム性という概念が一般ユーザーに全く受け入れられない理由がここにある。犬を飼うのに説明書を読む必要はない。nintendogsを楽しむユーザーは犬を飼っている。だから部屋でひとり「チンチン!」とか叫んでも警察を呼ばないでください。