Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

Re:キューティーハニー 〜ヒロインの苦悩

ゲームにおいてリメイクされているものは多数ある。しかしそれを異なるクリエイターに任せるということはおそらくないだろう。もちろん続編を一作目のリメイクと呼んでしまうこともできるだろうが、それが実現されているのはドラクエ・FFぐらいしかない。ドラクエなら堀井雄二という創造主が存在するので、彼が作る『ドラゴンクエスト』は一作目のリメイクであり続ける。FFはタイトルだけを借りた「FFのような世界観を持ったゲーム」としか表現できないが。

今回キューティーハニーがリメイクされたが、『再生』というニュアンスはどこにあるのだろうか。現代を代表するアニメクリエイターが作った意味は昔からの夢だったのか永井豪氏へのオマージュなのかわからないが、新たに庵野秀明氏によって作られたからこそこの作品が再び注目を浴びることができたのは間違いない。私も庵野氏が関わっていなければ見ていないと思う。単純にお色気満載のアクションアニメと言えばそれまでだが、作品そのものの評価よりも(所詮面白ければそれでいいので)、変身をし肌を晒してサービスをしなければならないハニーの姿にヒロインの悲哀を感じてしまった。

特に書く必要もないだろうが、現在の主流は個性に特化したキャラクター作りだ。きれいな娘、かわいい娘、運動神経のいい娘、おとなしい娘、メガネっ娘、メカに強い娘、お色気担当の娘、中性的イメージの娘、それらの合成・分割いくらでもあるが、視聴者の趣味嗜好に合致するべく女の子達はいくらでも生産されている。昔のアニメのように、一人のヒロインが魔法などで様々な姿に変身するという作品は絶えて久しい。それは少女向けの作品が男性向けに変わったこともあるだろうが、女性自身も何でも変身できるアニメのヒロインやTVのアイドルなどの裏側が透けて見えているのではないだろうか。

作為的に演じていることは見透かされている。一方、少女達が夢を見れる時間はどんどん短くなっていく。小、中学生ですぐに自分の現実、つまり「たいしたことない」ことに気づくと、魔法や化粧といったものを違う自分に変わるアイテムではなく「少しでもマシになるため」に使われるようになってしまう。変わらない自分にある「個性」というものになんとかすがる姿が各アニメ、マンガに投影される。ヒロインなどいらないのだ。

そういう時代を知ってか知らずか、キューティーハニーは胸をさらけだして悪と戦う。かわいい顔、完璧な体を持つ非現実的なハニーが欲しかったものは、友達だった。しかもキャリアウーマンでメガネっ娘、男社会で孤独に戦い友達をあえて作らないようにしてる、「個性」の強いキャラクターだ。ありがちとも言えるが。

悪と戦うヒロインを現代に呼び起こすためには、「現実」を確認させる必要があった。ハニーが社会から煙たがられるエピソードも、現代に復活するための儀式なのだ。結局彼女は社会にとけ込む。それがヒロインの終焉を意味するなら、今作はハニーに安らぎの場を与えるための救済の儀式なのかもしれない。