Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

ワンダと巨像〜圧倒的な切なさ

『ゲーム』というひとつの幻想が人を魅了し続け、その表現力が増大の一途をたどったとき、そこには人が切望する夢の世界が広がっているのだろうか。

人の歴史は今の常識から見れば荒唐無稽な幻想世界である神話から始まっているが、それはある種ゲームにも当てはまる。ゲーム初期の奥行きや重力、時間と空間を超越した『ゲーム的』空間は、まさに神話的世界を織りなす幻想空間だ。

そこから人々はあらゆる科学的研究を重ねた結果、この世界を縛る物理法則を発見した。そこでふるいにかけられた事象は『可能』『不可能』の烙印を押され、『不可能』であることはただの幻想であり現実世界から排除された。

そのような『可能』である現実的な物理法則はゲーム世界にも浸透し、これを表現することがゲーム的進化のひとつであるという意味づけをする者も現れた。それは人類の歴史と奇妙に符合する。ゲームという幻想空間でさえも、現実的な物理法則を適応し我々の住む世界を表現する方向に進まざるをえなかった。

精巧に作られたミニチュア世界に現実的な物理法則を適応させたゲームは、本来ゲーム的面白さとは無縁であるはずなのに強固に幻想空間を縛る。もはや神々が住む神話世界はそこにはない。知恵の実を食べた人間達が自分達の狭量な世界を押しつけるだけの空間だ。

ワンダと巨像』は精巧に作られたミニチュア世界に現実的な物理法則を適応させたゲームだ。それは『ICO』でも同じであり、あらゆる3Dゲームも例外ではない。そしてそこで展開される『ゲーム的』なお約束に縛られているのも同じである。

最初にゲームを作ると決めた時点で、それは『ゲーム的』に成らざるを得ない。ならばゲームとして楽しめる環境を整えるしかない。人間が巨像に全く歯が立ちませんでした、ではゲームにならないからだ。

その解決策として『ゲーム的』な魔法がかけられた。物理法則を守りつつ倒す為には巨像に弱点が必要になった。そこにたどり着くためにつかむアクションが生まれ、難易度を調節するための握力ゲージが生まれた。

いつしかこの魔法は巨像の持つ圧倒的な力を弱めてしまった。弱点というゴールにたどり着くためのアクションゲームに変わってしまったのだ。剣を交えて戦うわけでもなく体力の奪い合いを行うわけでもない。竜の返り血を浴びて不死身になったはずのジークフリートがただ一点の急所を突かれて死んだように、巨像は弱点を突かれて無惨に倒される。

大きかろうがなんだろうが、剣を数回突き刺して倒すことができるなら彼らに強さの違いはない。言ってみればゴールへの道がわからない巨像が強い(素っ裸の巨像が一番強い)。彼らの強さは体力の大きさや力の強さに依存せず、ゴールまでの道のりで左右される。このゲームは確かに手に汗を握るアクションゲームだが、それはこれまでのアクションゲームとは意味が違う。巨像の威圧感と落下の危険性からくる緊迫感であり、倒すか倒されるかという戦いの中で感じる緊迫感ではない。そこがこのゲームの評価が分かれるところであり、既存のゲームと比較できないゆえんなのだ。

前作『ICO』が固定されたフィールドを変化させることによって解決策を見いだす『環境変更型』ゲームだとすると、今作は時々刻々と変化する環境でそれに適応すべく操作する『環境適応型』ゲームと言える。安易にタイミングだけを見計らって行動するこれまでのアクションではなく、巨像という形をともなったNPC(ノンプレイヤーキャラ)と呼吸を合わせるように行動することで、巨像の存在を視覚だけではなく触覚によって感じることができるようになった。これはゲームという表現物が史上初めて得た感覚ではないだろうか。

精巧に作られたミニチュア世界に現実的な物理法則を適応させたゲームは、次世代機の登場によって大量に生産されるだろう。ゲームの持つ擬似体験の側面はこれから大きく発展し、表現力の向上により幻想世界の住人は現実世界との境を大きく浸食してくるはずだ。『ワンダと巨像』をプレイすることにより生まれる巨像のリアルな触感と手に汗をかいた体験は、間違いなくプレイヤー自身が巨像の体にとりついたことを意味している。そこに虚実の区別はない。脳が誤認したとしても、それは手に汗をかくという現実をともなってしまったのだ。

我々は喜々として技術の進歩を歓迎する。そこには人が切望する夢の世界が広がっているのだと信じている。しかしそれは皮肉にも神々の住む世界を現実世界が浸食するという倒錯した結果を生み出している。なぜリアルな映像を求めるのか。それはこの世界を生み出した神の所行をうらやむ本能からなのか。技術者達の飽くなき向上心からなのか。しかし、ゲームとは? 擬似体験に全て集約されてしまうものなのだろうか。

本当に贅沢なゲームである。そして切ないゲームである。次世代機ではいろんな意味で切ないゲームが大量に生産されると思うが、それは望んだことだったのだろうか。もう一度神話の世界に立ち戻るという勇気も必要だと思うんだが。