Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

続・ワンダと巨像〜ワンダと巨像とゲーム

ワンダと巨像』にとって、ゲームとはなんだろうか? おかしな問いかもしれないが、考えれば考えるほど不思議に思えてくる。

ゲームを作るのだからゲーム性を備えるのは当然、と考える人は多い。じゃあゲーム性とはなんだろうと考えたとき、明確な答えは出てこない。

一般的にゲームとは『(勝ち負けをあらそう)遊び』(大辞林 第二版)と定義される。だから巨像との戦いはまさにゲームである証明と言えるはずである。しかし、ならばなぜ『ワンダ対巨像』ではないのだろうか。もちろん、ただの語感の問題で『ゴジラ対キングキドラ』のようにはしたくなかったのかもしれないが、多少うがった見方をすれば、『ワンダと巨像』というタイトルの『と』には両者の関係が表現されているのではないかと思う。

ワンダの持つ剣は巨像を倒すことができる唯一の武器である。それを持つ者は巨像にとって明確な敵だ。この意味において、『ワンダ対巨像』は成り立つ。

しかし、ワンダにとって巨像は憎むべき存在ではない。動機は他者より依頼されている。それがどんな意味を持つのか知るよしもなく。
そして主体としての意志を持たない動機は、巨像にも当てはまる。巨像にとって戦いは正当防衛であり、ワンダが憎いわけではない。むしろ、村の人々によってドルミンを封印するための守護者として鎮座しているにすぎず、巨像としては2重の意味で正当防衛である。
ここからワンダと巨像は戦う主体として意志を剥奪されている者同士という関係が浮かび上がる。純粋な敵対関係をどこかで喪失しているような感覚をプレイヤーは覚えるだろう。

よって、ゲーム的お約束として戦いを強いられる両者は、その存在理由を相手に依存せざるを得なかった。

どちらが欠けても成り立たない存在同士だから並列に並べられる。もし自らの存在理由を賭けて戦えば、どちらも自分という存在を消すことになる。お互いが存在理由を委託しているワンダと巨像にとって、戦いは勝っても負けても自分を傷つけることになる。

意図的なのか偶然なのかわからないが、巨像に勝ってもワンダは深く傷を負っていくことになる。それはまさに自らの存在を消していく行為として表現され、最終的に1−1=0 という数式を完成させると少女に魂が宿り復活することになる。こう考えれば、生け贄として殺された少女は村としては都合の悪い存在(ドルミン)の為に捧げられたのだろう。だから、ドルミンの復活は少女の死を無効化するのだ。少女の死はある意味、ドルミンの封印という事態に委託していたのだから(土俗信仰の犠牲者としてとらえるか、物語として直接的な因果関係があるのかは不明)。

つまり、少女の死によってドルミンの封印は成されていた(あるいは少女たちによって)。それはいにしえの剣を持つ者にだけ解放する力があり、ワンダはそれを持ち出してしまった。鍵を閉めたら同じ鍵で開けるということだろう。

そうだとすると、ワンダと対決する巨像たちはなぜ肉体とも呼べるべき体を持っているのだろうか。封印されているのはあくまで偶像のほうであって、巨像ではない。巨像を倒せば偶像は壊れるという主従逆転は意外とこのゲームの核になっているのかもしれない。

ワンダと巨像』の中で、巨像との戦いだけがゲームである。それ以外は幻想世界の観光旅行だ。ではなぜここでゲームにしなければならなかったのか。それはプレイヤーという存在との関わり合いがあるからだ。

巨像との戦いは16回繰り返されるが、そのたびにワンダは祭壇の前で横たわっている。誰かに連れてこられたのか、それともアグロの背に乗せられてきたのかわからないが、何度もリピートする巨像との戦いは、壊れている偶像と傷ついていく体以外に時間性を感じさせない。つまり、物語世界にワンダと巨像の戦いは入り込んでいない感覚なのだ。

少年と少女の物語にプレイヤーの割り込む余地はない。巨像との戦いだけがゲームなのはそこにプレイヤーの介入を許さざるを得なかった結果なのだ。だから巨像との戦いはどこか幻想的な夢の中の出来事のように宙に浮いている。広い世界でワンダと巨像だけが戦っている様は、一歩引いて見れば遊園地で遊ぶ子供のようだ。プレイヤーは夢の部分にだけ介入する。そしてその代償はワンダが背負う。ドルミンはプレイヤーに巨像を倒せと言いい、ワンダには穢れとも呼べるような背徳的な行為の代償をその体に刻み続ける。

僕には全てが終わったあとに目覚める少女が、実は長い間『ワンダと巨像』の夢を見ていたのではないかと思えてならない。そしてその夢にプレイヤーが関わっていた。ゲームの持つインタラクティブ性は少女の夢の中で達成されており、物語そのものの中に入り込んではいない。結末を変えることはできないのだ。

ディレクターの上田氏はゲームとストーリーについてその相性の悪さを指摘しているが、これは僕も同感である。しかし、堀井雄二氏を始めとするゲームとストーリーとの戦いはまだまだ続けられるべきであるし、可能性もあると思う。やっぱりRPGが好きな人は多いのだから。

このゲームは賛否両論ある。ゲーム性は意外とシンプルなのにとっつきにくく難しい。その難しさが3D空間のリアリティから生じるのでどうしようもない。いいかげん巨像との鬼ごっこに疲れ果てるプレイヤーが出るのも当然だ。

ただ、3D空間で遊ぶゲーム性というものはどこまで広がりがあるのかよくわからない。今はまだ技術の進歩とともにミニチュア世界の製作が評価されるが、物理法則に縛られながら遊べるゲームはどれくらいあるのだろう。ゲームクリエイターは建築家じゃないんだから、その辺りを考えないとすぐに行き詰まってしまう気がする。

とは言え、ここまで作り込まれれば幻想世界の観光旅行者として見物するのも悪くはない。孤島にあるジュラシックパークで恐竜を見るように、禁断の地で巨像たちと戯れればいいのではないか。こういうゲームを創ることができるのは(また支持されるのは)、この制作チームだけなのだから。