Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

 RPGのストーリー表現

ひとまず日本においてRPGがドラクエから始まったとすると(いろいろあるのはわかるが影響力という意味で)、ストーリー表現(内容ではなく方法)に関しては現在でも特に変化は感じられない。一本道、分岐型、オムニバス、複数エンディング、これらがたびたび目に付く程度である。FFなどのような完全に一本道と開き直ってムービー中心のゲームが200万本以上売れる今となっては、わざわざストーリー表現に新規性を見いだそうと試みるクリエイターがいないのも当然だろう。

この分野は圧倒的にテキストゲームに一日の長がある。文字と絵しかない限定された状況だからこそ、テキストゲームはその表現方法に関して日々研鑽を積んだのだと思う。それがほぼエロゲーのみになっているのは寂しい限りである。ここにライトノベルが来てもおかしくはないのだが、ゲームというと何かしらミニゲームが必要と考える古い慣習が邪魔しているのだろうか。最近はエロ抜きのテキストゲームがプレステで発売されてもいる。ただ、あのコントローラーを握って文章を読むというのはあまりしっくりしないのだが。

それにしても、なぜRPGはテキストゲームのような変化に富んだストーリー表現を使えないのだろうか。わかりやすく言えば、なぜ『単線的』なのだろうか。この辺りにRPGによるストーリー表現の問題点が見えてくると思う。

何はともあれ、RPGには主人公がいる。プレイヤーの分身、ロールプレイするためのアバターだ。成長を描く多くのRPGは、目的の達成とその為の戦闘行為の繰り返しによるレベルアップによってストーリーを語る。主人公が勝手に演技を始める場合でさえ、プレイヤーの手による導きが無ければムービーシーンが始まる場所までたどり着けない。

レベルアップして成長するというシステムを導入している以上、主人公に流れる時間は常に過去から未来へ流れる。常に未来へ流れるからこそストーリーも各事象の積み重ねに成らざるを得ない。過去未来を行き来するストーリーもあるが、結局のところ主人公に流れる時間は変わらない。過去の世界で得た経験値は未来でも引き継がれる。それもこれも、プレイヤーと主人公が同一であるからなのだ。

そもそも、ロールプレイするのだからストーリーが『単線的』になることは予想できたことだ。自分の人生を顧みればわかる通り、今にいたる経過以外に人生はあり得ない。ゲームの主人公がプレイヤーの分身であれば、彼の人生もただひとつでしかあり得ない。つまり、主観視点でしかプレイヤーはストーリーを楽しめないということになる。

RPGは主観視点によるストーリー表現しかないので、多角的視点を求められるFFシリーズはムービーを多様する。そうなると、主人公のいない場面を見せるためにプレイヤーを切り捨てることになる。FFはムービーを鑑賞するゲームだとかコントローラーを使わないゲームだとか批判しても、システム的にロールプレイしない場面は他に描きようがないのである。

ストーリーを語ることは小説や映画で様々な手法がとられているわけであり、RPGのみ主観視点一本で突き進むことには限界がある。最近アクションゲームに勢いがあるのは、主観視点が一番自然に表現できるジャンルだからなのだ。

堀井雄二氏はドラゴンクエストでオムニバス形式も、タイムトラベルも、ミニシナリオの詰め合わせもやっている。ストーリー表現に関してはドラクエはいつも貪欲だったと思う。与えられた状況で悪戦苦闘していたのはRPGも同じだったのかも知れない。しかし、悲しむべきことは堀井氏の戦いを次ぐ人間がいなかったことだ。唯一、一部のテキストゲームや恋愛シミュレーションゲームにその痕跡を見いだせる程度である。

重要なことは、優れた脚本が必要だということだ。ストーリーは何も星を救う話ばっかりじゃなく、色々あっていい。ある男の平凡な一生でもいい。しかし、それをプレイヤーに対してどのように見せるのか、又どのように演じさせるのかを考えなくてはならない。堀井氏は優れた小説家ではなく脚本家だったのだ。

ゲーム版の修辞学といったものが研究されないと、このままRPGは映画と変わらなくなるのではないか。ゲームというメディアを使ったストーリー表現はまだまだ発展途上段階であると思う。