Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

 失われたストーリーの代償

ストーリーから離れることができたゲームは、本来それ自体が持っている自由を手に入れた。何者にも縛られない遊技空間はゲームが始まると同時に展開され、プレイヤーの都合により容易に収束する。始まりと終わりは常にプレイヤーと共にある。それは絶対的な意味においてそうである。

RPGは言わずもがな、プレイヤーの勝手な都合により収束することはない。それはもちろん放棄という最終手段が残されてはいるが、RPGは最初の2時間をやれば内容がわかるというものでもない。絶え間ない努力、惜しみない情熱、を、プレイヤーに求める割には、ありふれたストーリー展開に涙をのむ、そんな話が巷に溢れている。

本をめくるのに努力はいらない。斜め読みしようが熟読しようがそれは読者の気分次第。犯人がわかろうがわかるまいが、めくれば答えが書いてある。一足飛びに飛んで概要だけつかんで捨ててもいい。本は一個の独立した世界であって、それ以上でも以下でもない。読者は本の中にはいないのであり、完全なる受給者として菓子でも食べながら主人公の艱難辛苦を眺めればよい。

しかし、RPGは違う。主人公はプレイヤーで、世界はプレイヤーと共にある。暗所でたいまつの明かりを頼りにして進むように、プレイヤーは徐々に展開されるストーリーを少しのズレもなく体験する。次のページに行くためにヒントを探し回り、レベルを上げ、時にはミニゲームをこなす。そうして一歩一歩小石を積み重ねるような慎重さでようやくページは進んでいく。それが20〜40時間。これを長く遊べると感じられた時代は幸せだったのだろう。

そして今、この努力が面白いのか面白くないのかがRPGに問われているのではないだろうか。

世界の中心として存在する主人公は、すべての要素を自らの成長と強化に求めようとする。多くのRPGにとって成長システムは重要な要素であり、またこれそのものがRPGである場合もある。もし初めからレベルがMAXだったら、多くのRPGはやることを失うだろう。そう考えると、戦闘行為はゲームクリアの一種の遅延行為であり、プレイ時間を延ばすための苦肉の策である。同じ時間、同じ戦い方を繰り返せばみな同じように強くなるのなら、一晩放っておけばレベルが上がるようにすればいい。成長の仕方をプレイヤーに委任するシステムは、レベル上げのむなしさをわかっている制作者のせめてもの慰みなのだ。

だから『モンスターハンター』はこのむなしいレベル上げ作業に堕する戦闘システムを主題にして、ゼロからモンスターと戦うことを考えた。エンディングへ向かう道程に八百長的な姑息さを持って登場するモンスター達との戦闘とは違って、一匹のモンスターを倒す為に主人公側が一戦一戦全力を傾ける戦闘システムに変更した。その結果、モンスターの存在感は際だち、だれるということが無くなった。『モンスターハンター』において、無意味な戦闘はありえない。

しかし、RPGのひとつの終着点として『モンスターハンター』は存在したが、失われたストーリーの代償はそれほど小さいものではない。手段に没し目的を失った主人公は、無責任にモンスターを倒す。楽しいから、武器を強くしたいから、レアなアイテムが欲しいから…。勇者の座から降りた主人公は自由と引き替えに物語の中に生きる意味を失ったのだ。

だからいつでもやめられる。飽きたらやめられる。村人から世界を救ってくれと頼まれないし、姫を助け出してくれとも命令されない。きままなハンター暮らしというのがテーマのひとつでもあるのでこの辺りは織り込み済みだが、結局誰でもいいのかという寂しさは少し感じるのである。どんなに強くなってもそれが認められないとどこかむなしい。

ストーリーというのはどんなゲームに対しても意義を与える。ほかの何かに代用できないアイデンティティーを手にすることができる。『モンスターハンター』にしてもドラゴンを倒すというファンタジー独特のストーリーが無ければ生まれなかったはずだ。

今『大神』をプレイしているが、和風ファンタジーのストーリーが無ければこのゲームも生まれていないと思う。ゲームというのはストーリーと反発したり邪魔になったりするものではなく、生み出されるものではないだろうか。だからストーリーの多様性はゲームにとってプラスにこそなれマイナスにはならない。

そこを素人クリエイターに期待したいのだが。