Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

少女と主人公〜『涼宮ハルヒの憂鬱』絡みで

創作という世界においてはどのような表現方法も許容しうるわけだが、ことここに至るアニメの女性表現はもはや常軌を逸するというか別の次元に飛んでしまっている。

少女であるという壁は変身したり魔法を使ったり大人になってみたりして超えられてきたのだが、現在の彼女たちはその存在そのものがスーパーヒロインである。男との決定的な差である体力や腕力さえも二次元であれば易々と超えることができ、ちょっと呪文を唱えたり特別なアイテムを振りかざせばどんな悪魔も倒してしまう。彼女たちはほぼ完全な存在として多くの創作物に顔を出している。

それは性差別が生んだ奇妙な逆転現象であるかのように考えられてもいたが、少女を血まみれにしたり腕をとばしてみたり鉄骨で体を貫いてみたりするそれは、完全なサド・マゾヒズムの変形だ。

完全な鑑賞者、つまり舞台に立つことは絶対にありえない者達によって期待される世界というのは、まったくのリスク無しで快楽が得られる世界である。手も触れられずニオイも嗅げない少女に対してどのような愛情表現をすればいいのかわからない。ならばその愛情表現すらも提供してあげようというのが昨今のオタク系アニメ、ゲームではないだろうか。

二次元の少女に出会うためにはこっちも二次元の住人になるしかないが、もちろん生身の人間であるのでそれは叶わない。ならば鑑賞者を二次元に登場させることによって愛情表現すらも提供する(少女に囲まれる主人公を見て、それを楽しむ)、これがほぼオタクアニメの実態である。

そして、それを作為的にやったのが『涼宮ハルヒの憂鬱』ではないだろうか。
自分はこれをオタク系アニメと断定できずにいるのは、あまりに作為的過ぎて逆にせせら笑っているのではないかと思えるからである。

キャラクターがコスプレ姿で登場するアニメは多数あるが、コスプレが必要だからコスプレをするという動機は聞いたことがない。彼女たちは自分自信が商品価値を持っていることをあざといまでにわかっていて、男がコスプレ好きであることを知っている。それは主人公であるキョンを通じて視聴者に対し愛嬌を振りまいているのであって、そのことすら全くと言っていいほど隠すことはない。このアニメを見る者たちが受けるライブ感はステージ上のアイドルに声援を送ることとなんら変わらない。

だから、このアニメの目的は第一話でほぼ達成されているのではないかと思うのである。劇中劇の中でコスプレをしているキャラクターと本編のアニメでコスプレをしているキャラクターとの違いは何だろうか。どれだけ階層の次元を増やしても同じように見える二次元の世界で、彼女たちは飼い殺しの状態にあっている。何をどう行動しても世界から抜け出ることができない彼女たちは、夢を見続けるハルヒに存在を依存している。それは主人公であるキョンもある意味同じである(ただし、そのような状況を変えられるのは主人公のみであるのだが)。

小説一巻での夢落ちは空想の世界に生き続ける少女が大人になる通過儀礼を受けたようなもので、その結果静止した世界が動き出す=二次元世界が崩壊すること、とも受け取れる。
崩壊する前の二次元世界をSF、美少女、コスプレ等々で埋め尽くしたのはその後訪れるカタストロフのためだと考えると、この作られた『萌え』と呼ばれる世界がよりいっそう超監督である『涼宮ハルヒ』によって演出された劇中劇であることを認識させるのである。


しかし、全くいつまでたっても主人公は鑑賞者である。傍観者ですらない。傍観者なら覚悟があれば当事者になれるが、鑑賞者では劇の中に入り込む権利もない。『エヴァンゲリオン』の主人公碇シンジくんはまだ傍観者(結局は)であったが、10年たって彼は鑑賞者になってしまったのであろうか。

ぼくが、まあ全然ゲーム作れてないわけだけど(ダメなやつだ)、ゲームを作りたい、または期待したいのは、プレイヤーを当事者として引っぱり出すということです。映画とゲームの決定的な違いは消費者が鑑賞者なのか当事者なのかというところなんだから、そこを生かしたゲーム作りに可能性があるんじゃないかと思うわけです。といっても、その結果は『どうぶつの森』だの『脳トレ』だのですでに結果は出ている。あとはストーリー系のRPGにそのテイストをどう加味するのか、オンラインゲームでその結果は出てしまったのか、といったあたりの考察がまだ足りないのではないかと。

せめてゲームの少女には、猫耳を付けたりメイド服を着なくてもプレイヤーと対等につきあえるようになってほしい、またプレイヤーも対等に付き合ってもらいたいと思うのです。