Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

『二次元』へのいざない〜NHKにようこそ!

こういう若者のモラトリアムを題材とした小説は定期的に出現する。といっても、毎月だとか毎年だとかいうレベルではなく、その時代時代というきわめて曖昧な区分に分けるしかない世間の空気といった時間軸に沿うものである。

先の見えない若者の苦悩はいつの時代にも存在する。まあ、それはいくら出生率が低下しても毎年人間は生まれるわけだから当たり前といえば当たり前なのだが、本来切れ目のない人間の歴史の中である程度の空気が大まかに支配するとすれば、現在の主役は『二次元』だと思う。

自分の夢と現実のギャップを悲観する主人公は掃いて捨てるほどいるわけだが、そのお決まりの構図(夢を実現しようと努力するが叶わず、悲嘆に暮れて死のうとする)にこの小説は似ているようで似ていない。なぜなら主人公は努力すらしないのである。そしてそれはなかなかに市民権を得た言葉で表される。『ひきこもり』である。

『ひきこもり』というのは外に出ず部屋に閉じこもっている状態のことを言うが、この主人公の状態は今であれば『ニート』のほうがより正確だ。大学を中退した主人公はもはや学生ではない。22歳で学生ではなく、社会人としか呼べないのに無職である。ちょっと前ならただの遊び人で、親のすねをかじって遊び呆ける放蕩息子、これでいいはずだった。

しかし、『ニート』は大抵金がない。どんなに遊び呆けてもいずれは助けてくれる金持ちの親父はいないのだ。普通の一般庶民であるにもかかわらず、現実が見えない。遊び人が陽性の『ニート』なら『ひきこもり』は陰性の『ニート』である。金が無いのに働かないから事態は坂道を転がるように悪化していく。そして、勝手に夢を否定して勝手に自分を否定して勝手に世界を否定する。負の連鎖が行き着くところまで行き着くと、そこには当然『死』が待っている。

もし、夢が破れたとか、恋に破れたとか、償うことすらできない犯罪を犯してしまったとか、そのような具体的な原因があるとすれば、その原因に対して対策も講じられよう。しかし、この主人公は最初から負けている。戦う前から負けている。にも関わらず敵を作り出そうとし、その敵に勝利することを夢見ている。敵がいれば今の自分の状態が説明できるから。じゃあ、そもそもの発端はいったいなんだったのか。…それも結局、自己妄想の世界である。

『モラトリアム』という言葉は精神分析学的には「社会的責任を果たす前の猶予期間であり、自己同一性を確立できず消極的な生活に陥りがちな期間」といった意味で、このような時期に書かれる作品というのは往々にして「昔はよかった」「でも今は夢もない」「もっと楽しいことがたくさんあると思った」「なりたかった自分ではない」などと現在の自分と比較して学生時代の郷愁にかられる作品が多い。ライトノベルの大半が学校を舞台にしていたり、魔法や超能力を駆使して敵と戦う作品が多いのも、そのようなモラトリアムな精神状態に対しなんらかの戦いを挑まねばならぬ思いがどこかにあるからなのだと言ったら、作者は怒るだろうか。とはいえ、ライトノベルの作者は20代が多いのだから、目に見えぬ敵と戦うことをリアルに感じていてもおかしくはないのだが。

さて、この作品がモラトリアムを題材としている以上、主人公は様々な逃避行動をとるわけだが、酒、クスリ、宗教という定番な要素のほかに『二次元』がある。まあ、これは正確に言うと後輩の山崎という男によって体現される、いわゆる『二次元コンプレックス』というやつだ。

社会の空気というものを持ってくるとすると、世はまさに『二次元』花盛りである。とうとうメイド喫茶店なるものが出来上がって、メイド服をきて「お帰りなさい、ご主人様☆」と言うようになった。イメクラならイメクラらしく裏通りでやっているのかと思いきや、それはもう堂々としている。オタク業界は何千億産業だのアニメーションは世界に誇れる日本の文化だのゲーム産業は…と、それはそれは経済界のみならず政界も持ち上げる『二次元』様なのだ。…というのは皮肉ですよ、一応。

だから、社会的責任というやつから逃げ続けるツールとしては『二次元』というのは極めて優れていて、この山崎君が『夜々木アニメーション学院』(原文まま)に通っているというのは、まあそういうことなのだ。そして、ろくなゲームも作れずクスリに溺れて将来に絶望するも、結局家業を継いで収まるところに収まるという結末は、ありふれたモラトリアムの終局の形である。

けれど、主人公は意外とまじめに苦悩する。逆にその分だけタチが悪い。何度も死のうとするが死ねない。死ぬ勇気もない。しかし、そんな彼に天使のように降り立つ謎の美少女、岬が現れた…。と書けば、それで彼は救われるのかと思うが、結果的には『類は友を呼ぶ』という最悪の事態に陥る。家庭の事情から自殺しようと思っている岬に、何度も死のうとして死ねない主人公の組み合わせ。これなら二人で入水自殺でも練炭自殺でもしてしまうところだが、主人公は岬に生きることを願った。

なぜだろうか。それはやはり、『ひきこもり』に対して真剣に悩んだからではないか。本当に今の自分がいやでいやで、何とかしてこの境遇から逃れようとして失敗して、『二次元』に逃げてクスリに逃げて、それでもこの自分の『生』は何か意味を持つんだという最低限の人間らしさが、彼を英雄的行動と言っていい事態、つまり岬を助ける為に自分が死ぬ、という自殺に意味を付加する形で(しかしこれも欺瞞であるが)現れたのだと思う。

結局、彼は死ぬことができなかったが、岬は自殺をやめた。共に悩んだ山崎もリストカットした高校の女の先輩もモラトリアムを脱した。そして脱することができない主人公だけが残ってしまった。『ひきこもり』の『ニート』が『ひきこもり』の『フリーター』になった。この結末はなかなかもの悲しいが、胸を打つ。みんな社会に迎合しただけか、あんなにいやがっていた普通の生活に安住しやがって、夢はどうした、希望は、倒すべき相手はどこにいたんだ…などとはつぶやかないが、彼は最低限の生活費を稼ぐため、夜の交通整理のバイトをする。おそらく、来る日も来る日も。


人間が惰性のままに人生を送ろうとすると、普通は社会という網に引っかかり労働を通して社会的責任を取る。しかし、その網から逃れようと社会から必死に姿を隠して生活する人々もいる。だったら戦うための武器なり計画なりを準備しているかと言えば、特に何もしていない。なにしろ、敵がいない。戦い方がわからない。

この小説は突然少女が出てくるエロゲー的展開だったり、悲劇の少女を救うというRPG的結末だったりするが、それら『二次元』要素は最後まで物語を支配する。主人公は『二次元』に対して時にすがり時に戦う。漠然とした悪の巨大組織は彼を『ひきこもり』にするべくあらゆる仮想現実を提供してくるが、『二次元』世界を構成する最も重要な存在である岬がヒロインの座から降りようとしたとき、死ぬ意味が最後まで持てなかった主人公は、命と引き替えに岬を助けるというゲームに飛びついた。だが、社会のセーフティネットはまさに文字通りの意味で主人公の命を救ってしまったのだ。ここにおいて、主人公と岬のゲームは終了した。『二次元』世界の崩壊といってもいい。

『二次元』世界は崩壊するべきなのか拡大すべきなのか、といった問題の主導権を握っているのはやはりお金か。人がどんどんお金を払ってゲーム、アニメ、マンガ、映画を見続けて『二次元』にかじりついていく様は、必死にN(日本)H(ひきこもり)K(協会)に受信料を払っているかのようだ。肥大化した『二次元』は現実社会を浸食する。さんざんお金を巻き上げて「現実へ帰れ」って、そりゃないでしょ。

この時代に書かれるモラトリアム小説は、どうしても『二次元』を無視できない。いや、書かれるもの全てに『二次元』要素は含まれているかもしれない。現実と虚構、虚構と現実は『二次元』という関数によって相互に変換されうるものになった。それでもこの『ひきこもり』が書いた小説『NHKにようこそ!』は作者の現実と虚構を行き来しながら無視できない今の空気を伝えてくる。これだけ死にたいと言いながら誰一人として死ななかったのは、作者の願望か、あるいは諦観かはわからないが、とりあえず生きてみないと何も見えてこないと、まあそういう風に思うわけです。