Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

ゲームの意義〜年初なんで

何度も書いているが、ゲームというのは基本的に戦いである。戦うことによって目的は必然的に設定され、そのための努力を要求され、行為の意義を保証される。ストーリーに全くプレイヤーの個性が反映されない『お使い型』ゲームですら、何もしないよりはまだそれを望むものだ。

何も要求されないよりも何かを要求されたほうがいい、これは社会的動物である人間の根源に関わることかもしれない。ゲームがなくならないのは人に戦う場を提供するからであり意義を与えるからだ。衣食足りた人々は文化の比重を高め無個性のうっぷんをはらす場を求める。その受け皿としてのゲームは今後なくなることはないし、より要求される可能性すらある。

平凡な人間が生きるための文化という営みは、その何の変哲もない人生に対し何かしらの意義を見いだそうという結果なのかも知れない。しかし特に目的もなく漫然として生きることに慣れ、かといって不足もなく不自由のない生活というものは、何かが達成されてしまった後の残滓なのだろう。ファンタジーなどの架空世界がいくつも作られていく現状は、もはや世界に必要とされずただ金の詰まった皮袋として社会を支えている存在からの逃避行為なのかもしれない。ネットゲームで社会を構築するなど、ひとつの進化系の終局であり人間が行き着いた先の答えなのだろう。

その無個性の苦しみのなかで人が必要とされる世界がゲームなのだとしたら、現実と虚構は逆転してしまう。現実社会の構成員として責務を全うしつつゲーム的世界を楽しむバランス感覚というものは、これからゲーム文化が成熟するにつれて育っていくのだろうか。妄想に取り込まれず地に足をつけ、それでいながら必要とされている実感を得ながら生きていくことは可能なんだろうか。

理想ばかりが押しつけられるのは別にゲームだけではなく映画・アニメ・小説なども同じではあるが、人が自分の理想を実現する場所が現実しかなかった時代とは違う、二次的世界(これも『二次元』なんだろうが)の代理行為はこれからも続くだろうし、味気ない人生の友として存在意義を持ち続けるだろう。望むべくは、それらがただの憂さ晴らしに終わることなく、現実を好転させる契機になってほしいところだ。

ゲームの今

年末の次世代機レースは圧倒的な『wii』の勝利に終わった。前回、次世代機レースは『wiiリモコン』に興味があるかないかで決まると書いたが、まさにその通りになってしまった。これだけ癖のあるハードがいまだに買えない状況が続いているというのは(ちなみに自分も買えてません)、かなり意外な結果である。ゲーム好きであればあるほど、あのリモコンはこれまで信じていた神をないがしろにする邪教の悪魔に見えるだろう。こんなもの振ってゲームなんかできるかと誰もが思うはずだ。

しかし、多くの人はゲームの既成概念をどんどん踏みつけて新たな可能性を手に入れようと欲した。このズレ、とまどいはしばらく続くだろうが、そのようなあぶれてしまった人の受け皿となるべきPS3はまったくの死に体となり、ゲーム難民の受け皿にすらならない。年1,2本発売される大作ゲームのために買える人だけしかいなくなってしまう。「すべてのゲームがここに集まる」というスローガンはもはや過去、大量の開発費を投じた『勘違いゲーム』(と、あえて書くが)が作られるばかりだ。

やはり『たかがゲーム』という気楽なスタンスは必要だろう。ゲームは遊ぶためにやるものだ。人間の文化には遊びが必要である。その遊びが生み出される土壌というものは、肥沃であればあるほどよい。言い換えれば、可能性が大きいほうがよい。一部の機能に特化した生物というものは簡単に死滅するように、多様なゲームを生み出せる土壌は遊びの一翼を担うものとしては必ず必要である。

別に特定のハードだけ持ち上げるつもりはないが、DSやwiiの勢いはあたかも植物の根が栄養を得るべく四方八方に広がっていくような有様である。正直、ゲームはここにきてようやく本来の『カオス』的な状況になってきたと思う。

あと一息、これは素人ゲームクリエイターの裾野の広がりが欲しいところだ。何事にもプロではない『同人』というカテゴリがあるはずだが、ゲームは表現の場としてはいささか敷居が高いのか、それともいわゆるジャンルに縛られてミニゲームに特化してしまうのか、テキストに絵をつけるのが限界なのかわからないがいまいちふるわない。他のメディアは『情報』だけ変えればいいのだが、ゲームは『キャンバス』まで変えなければいけないというのは確かに難しいのだが。

今後の流れとしてはHDTVの普及によってゲームも高画質化を避けられなくなり、今時のパソコンゲームのような3Dでリアルなものを動かすという方向性はある。だが、メディアがすべて複雑でリアルなものを志向するかと言えばそうではない。線が少ないマンガを駄作と決めつけることはできないように、動かないアニメをバカに出来ないように、表現の振り幅は自由である。できないことができるようになった時代からできるものの中から主体的に選ぶ時代に変わったのは、おそらくハードに影響されるゲームが一番後発だろう。

据え置き機は終わったとかいう批判は、wiiをどう扱うのか。やはり異端なものとして排除するのだろうか。もうそういった形状やスペックだけで判断するような狭い価値観ではなく、『ゲーム』という広い意味での世界を考えないとこれからの展開は見えてこない。

もともと『ゲーム』には己の存在価値を賭けるという要素がある。無個性だろうが平凡だろうが、賭けるからには戦う意志を持つ。意志を持てば自分を感じ、そして相手を感じる。コミュニケーションとはこうして生まれるものなのだろう。それが面白くないわけがないのだから、やっぱりゲームをしてしまうのかもしれない。