Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

めぞん一刻〜切ない構造

たまたま『めぞん一刻』を読み返してみて、これは30過ぎて読むと切なすぎるなぁと感じすぎてしまった。

話の内容はご存じの通りで未亡人で美人の管理人さんとダメ人間の五代君が様々な障害を乗り越えて結ばれるというもの。単純な女性の奪い合いではなく、どちらかというと亡くした夫に対する思いのために好きと言えない管理人さんが五代君の気持ちを受け入れるまでの話である。

未亡人という設定はまじめに考えるとかなり重い。この設定はつまらない言い方をすれば、二人がくっつくまでの障害を増やして遅延させ引き延ばすための要素でもある。未亡人に共感を与えようとするストーリーではあまりに重くヘタをすると見るに堪えなくなる恐れがある。周りの住人のめちゃくちゃな明るさは未亡人という重さを必死に軽くしようとする結果であり、天の岩戸に隠れた神様を再び世界に呼び戻すための手段でもある。管理人さんの閉じた心を開くために周りの人間が右往左往する姿の滑稽さがこのマンガの魅力であり、簡単には開かない心を未亡人という柱で支えている理屈になっている。

五代君にとって管理人さんは神様そのもので、彼の人生は彼女を中心にして回っている。保育士になるのも就職活動の失敗による偶然のたまものであり、彼の恣意性は管理人さん以外へはほとんど向けられていない。やりたいことがあるとか夢のために上京したとかそういうことは一切無い。もし管理人さんのいない一刻館に五代君が居続けたらまったくの無意味で、彼は恐らく無意味を人生として歩んでいくことになるだろう。重すぎる過去を持ち未亡人という自分を過剰なまでに引き受けている管理人さんには、自分というものが極めて希薄で人を受け入れる容器が空っぽの五代君しかいなかっただろうし、こうするしかなかった。脱落していく(離れていく)ライバル達はみんな自分の生活があり人生があり意志を持っている。自分の人生を生きられない二人がくっつくのはライバル達との対比の結果容認されている。

この『空っぽの主人公』というのは随分と使い回されて恋愛をテーマにしたラブコメにはよく登場するが、それは焦点の当て方による副産物である。恋愛の盲目的側面にファンタジーを大量に注入すると完全に自分が消失する空間ができあがる。ここには小説やマンガがつけいる隙がいくらでもあり、多少の荒唐無稽な話も成立する。まあ、今ではいかにバカバカしくするかを競い合うような状況でもあるが。

そしてこの荒唐無稽を表現する場としてマンガはうってつけであり、『めぞん一刻』の面白さは今さら語るまでもない。小説で管理人さんの複雑な心境をくどくどと語るよりも、五代君が他の女性と会っているときに怒りのオーラをまとって登場したほうが面白い。感情を絵で表現することにかけては天才的で、マンガが信じられないほどの効力を発揮している。絵を見るにも関わらず目で見えない感情を絵で表現するというのはわかったようなわからないような話だが、抽象的な概念を記号として読者にわからせるための技巧が卓越しているとでも言えばいいのだろうか。そしてこの技巧がよく発揮されるのは心の動きを表現する恋愛ものになるのだろう。マンガ的レトリックって誰かたぶん研究してるだろうけれど、笑いながらほうきを折ったり頬に線を入れて否定したりアンビバレントな逆説的イメージを多用することにより管理人さんの複雑でありいいかげんであり滑稽な側面がよく表現されている。

五代君は就職につまずく程度でほぼ人生の一般的なレールを進んでいくが、管理人さんはほとんど変わらない。まさか五代君視点の永遠に変わらない管理人さんをマンガで表現し続けたわけでもないだろうが、彼女だけは一刻館に縛られ続けている。もちろんそれは亡き夫との繋がりの中で新たな人生を五代君とともに歩むという隠喩なんだろうけれど、それでも沈殿している亡夫への想いは徐々に薄れていく。

例えば空間の閉鎖性と動かない一刻館の時計から、箱庭的空間の中で永遠に繰り返されるラブコメを表現しているという批評はあまり面白くない。できれば時計を直して新たに時を刻み出すほうがしっくりくる。なんでも閉塞状況と際限のない日常性と結びつけるのは本当に面白くない。氷のように張り付いたままの過去への想いを溶かす作業を通じて変化を受容する軌跡を描いたと考えれば、これは永続性ではなく断絶でありラブコメの終焉でもある。

楽しいことだけを繰り返して時間を延ばすことはマンガの常識だが、五代君の成長と管理人さんの薄れていく亡夫への想いは確実に物語の終焉を引き寄せる。永遠ではない時間と変わってしまうキャラクター達が日常への回帰を促す。時が止まってしまった管理人さんの人生が動き出すことによって他のキャラクター達が普通の(この場合は物語上なんの影響も与えないという意味で)どこかにいる人間に移行するのである。しかし、管理人さんは幸せである。これが重要。

今時のキャラクター重視のマンガや小説は数々のストーリーから生まれた人物や表現方法をひょいひょいと抜き出して即席のミニ世界を形成してしまうから、パクリとかライトとか言われる。この『めぞん一刻』がラブコメの金字塔と呼ばれるのも、人物や設定が姿を変えていろんな作品に登場するからだろうけれど、それは魚が切り身の状態で泳いでいると思っているような気がしてならない。

物語が終わらなければ管理人さんは幸せにはなれない。物語のはしごを続ける人々は一生幸せにはなれないだろう。しかしそのほうが面白い。そのギャップはなかなか人を苦しめる。結婚しない人々が増えるのもそうかもしれない。

めぞん一刻』を読んで切なくなるのは、つい自分を省みてしまうからだろうか。