Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

 大日本人〜笑いの価値は

それにしても、日本人というのは『巨大化』に対して一種の憧れを持っているのではないかと思われる。

単純に白人と比べて背は低く体格も小柄で、西洋人に対してコンプレックスを持っているという一般的な解釈は成り立つだろう。それに加えて敗戦の原因である技術力の低さと目的に対する合理的な概念の欠如(東洋的精神の惨敗)は戦後の日本のあり方を決定的にした。

その裏返しとして形而上的な創作物(映画やマンガ)には頻繁に『柔よく剛を制す』展開や、小柄な主人公が鍛錬を積むことによって強力な敵を倒す『ビルドゥングスロマン』が流行した。信じれば夢は叶う、努力すれば報われるといういかにも精神的な願望は、皮肉にも空想世界においては絶対的な価値として日本人のサブカルチャーに息づいている。

しかし、そのような非現実的な子供の空想で強力な力を持つ大きな敵に勝てるわけがない。それならどうする? どうすれば勝てる?

「…こっちも大きくなればいいじゃないか(笑)」

ということで、巨大ロボット、巨大ヒーローが誕生する(ほんとか?)。

日本には、いや、日本にだけ、巨大怪獣が襲ってくる。中国とかアメリカとか強い国にはいかない。弱小国家、戦争でボロクソに負けた日本にだけ追い打ちをかけるように襲ってくる。

そこで小柄な日本人が巨大化して怪獣をやっつける。どうして巨大化できるのかは知らないが、でかいヒーローはかっこいい必殺技で日本を救ってくれるのだ。

普通、大きなものは敵として登場する。アメリカのヒーロー、スーパーマンは巨大化なんてしない。でかいやつはキングコングや地球を侵略しにきたUFOなど、倒すべき相手として登場する。助けるべきヒーローが巨大化してビルを壊してはいけない。日本以外に巨大化して戦うヒーローが存在する国があるのか、自分は聞いたことがない。

ある意味論理的、ある意味バカバカしい巨大ヒーローは子供達の中で憧れの対象であった。大きくなりたい、強くなりたいという欲求に対して、バリー・ボンズにど真ん中のストレート勝負を仕掛けるような爽快さで答えるのである。でかいヒーローがでかい敵をやっつけてくれる、と。

もちろん、現在はそのようなヒーローなど見る影もなく、もっぱらパロディとして用いられるのが現状である。むしろ人々の妄想は進化(?)して、女子高生が日本を救ってくれるようになった。別に巨大化したりしないですよ。江口寿史のマンガで巨大化する女子高生がいたような気がするけど(これが読み返してみたら女子大生だった。今なら確実に女子高生だよな)。

自分なんかの世代(76世代とか言ってるけど、こんなのマスコミしか使わん)は既にパロディとしてのヒーローが一般的だった。キン肉マンもドラゴンボールも、結局巨大化するという設定は消滅するか極たまにイレギュラーな出来事として登場するだけである。巨大化されては物語がむちゃくちゃになってしまうからだ。

なので、この『巨大化するヒーローのパロディ』という笑いは使い古されたありふれた題材なのである。ウルトラマンもCMで笑われる対象として存在する。もうそういう文脈でしか、でかいヒーローは登場できないのだ。

松本人志がこの『大日本人』でやったことは、パロディのおさらいのようなものだった。まあ、見ての通り『アメリカのでかいヒーロー』が『ウルトラマンのような格好』をして、『赤い敵』をやっつけるのである。とってもわかりやすい。

自分が少し空恐ろしくなったのは、もしこれがすごく真面目に巨大ヒーローが巨大怪獣をやっつける物語だったとしても、たぶん笑ってしまうんじゃないだろうかと思ったことである。

日本人がハリウッドのヒーローものを幾分バカにしたような形で批評することを知っている。ああ、いかにもアメリカだね、と。ピンチの時に星条旗をバックに登場するヒーローに、ハイハイ、と呆れるあれだ。

しかし、僕たちはもうこのようなヒーローを信じられなくなったが、巨大怪獣が襲ってきたときにいったいどうするのか。もうヒーローはいないぜ。自分達で戦う準備なんか全くしてないよ。炎吐かれたら一発で死んじゃう。

日本はもう巨大ヒーローなんて非科学的な存在を信じなくとも、巨大怪獣を倒す技術力や軍事力を手に入れたのでもう必要ないのだろう。合理的論理的に、たぶんくるぶし辺りを集中的に攻撃して立てなくしてから目を潰してのどを切り裂くんだろう。ショー的な演出の全くないただの殺人。この映画のラストもそんな感じだった。もちろん、意識的に。

ただ、このような物語は『エヴァンゲリオン』で経験済みの方も多いと思う。見たことのある人はかなりの部分『大日本人』と重なるところがあったと思うし、むしろエヴァ自体がある意味『巨大人間』なのだからそのまんまと言ってしまってもいい。

エヴァで巨大ロボットは死んだし、主体的なヒーローも死んだ。終末思想を信じない人には関係ないが、世紀末に現れる救世主はどこにもいなかった。

しかし、その後流行ったのは20年ぐらい前の『機動戦士ガンダム』である。ゲームもバカ売れ、特にカプコンの『連邦vsジオン』はゲーセンでスーツを着たサラリーマンが必死になってプレイしていたものだ。それは社会現象だったと言っていい。

もちろんガンダムだってパロディ化される。価値を剥奪される。それでも巨大ロボットというバカバカしい子供の空想に大人が熱中するのは、やはり信じたいからだろう、アツい物語を。そして守りたいのだ、その価値を。

ガンダムはファンに愛されている。それは真面目を貫いたからだ。対してエヴァンゲリオンは愛憎が混濁している。しかしそれも真面目を貫いたからだろう。

大日本人』の笑いは悲哀である。それは日本の戦後を代表する屈折した感情でもある。今どきの若い子が笑うところと、自分らの世代が笑うところは違うと思う。ある人にとっては笑えないかもしれない。ある人にとっては笑わざるを得ないかもしれない。笑いの天才は笑えない笑いを作り出して金を取っている。大したものだ(笑)。