Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

ゲームの世界構造〜LAノワールが見せた世界

ゲームはある目的のために世界を切り取って表現している。基本的にプレイヤーからは見えない世界は存在せず、また存在する必要もない。画面に映る世界が全てである。

制作者はその世界の中でゲームを構成する。それはシューティングゲームでもロールプレイングゲームでも変わらない。プレイヤーに必要な情報は一つの画面に集約される。

言ってみれば、世界は逐一プレイヤーの目の前で再構成され続ける。その時々に必要と思われる情報を与えるのがゲームである。

 

書き割りのように次々とプレイヤーの目の前に表示する。そのような作りがゲームにとって当たり前であった。

しかし、高性能ハードの登場によりゲームの性質は変わる。ゲーム表現のために画面を変化させることに変わりはないが、それが一つの空間を共有しているという点が大きく異なる。

いわゆる『箱庭』という空間。現在では当たり前過ぎて表現として意識しなくなったものである。

 

ゲームはある状況を動的に表現するために画面に変化を与える。その方式というものはゲームを特徴づける重要な要素である。それがゲームの歴史であり進化の歴史でもあった。

ある目的のために左右へ行き続けるのがアクションゲームであり、奥へ行き続けるのがレースゲーム、というくくりができた時代もあったが、今ではほとんどのゲームが箱庭空間を共有した単一の世界を構成している。要するに現実世界の法則を模したゲームが大半を占めている。

 

リアリティを出すために現実の空間認識に近づけようとすれば、確かに箱庭空間というものは最適かもしれない。しかし、それはゲームというものの表現方式としては行き止まりではないだろうか。箱庭空間を構築するには構造物の精密さ、物理計算の正確さ、そういったものが求められる。この戦いに持ち込んだのが海外ゲームの成功の秘訣であることは間違いないが、何もゲーム全般の成功を意味しているわけでもない。LAノワールはこのあたりの問題点を図らずも露わにしている。

 

このLAノワールというゲームは、上記のような意味ではいかにも海外的な精密な箱庭空間を表現したハイクオリティなゲームという印象を与えるが、ゲーム性という観点では古典のアイディアをツギハギしたような印象を与える。それは決してゲーム内容から受ける古臭さではないのだ。

 

1947年のロサンゼルスを舞台にしたフィルム・ノワールの手法を使用した世界観は、このような箱庭的表現方式を獲得した現在のゲーム技術を用いて表現されている。

当時の街並みをそのまま再現し、プレイヤーは車に乗り自由にドライブできる。登場人物達はその作られた箱庭空間を平等に歩くことを許され、固定された世界の中で物理的法則をきちんと守りながら生活している。主人公にだけ許された世界というものは存在しない。そこに存在するあらゆるものと全く同じルールに則って行動しなければならない。

 

神が世界のふたを開けて中をのぞき込むと恐らくこのような心境になるのだろうという疑似体験は、ゲームという本来リアリティのない仮想空間を現実の疑似空間として認識しうるほどにリアリティを持つものになった。この中で行われる銃撃戦やカーチェイス、犯人の追跡や取り調べは全て専用の書き割り画面を用いることなく、単一の箱庭空間を共有してできている。主人公がいるいないに関わらず、街並みは常に息づいている。そういう意味では、プレイヤーはそこに『世界』を感じることができるのだ。

 

このような世界表現は本来ゲームに応じて変化しうるものだろう。2次元なのか3次元なのかという段階でさえ、ゲームが表現する遊びに大きな変化をもたらすはずだ。場面に応じた専用の書き割りは、使い方によってゲーム性を豊かにする手法になり得るだろうし、何より不必要な物理計算はゲームがもつ仮想空間の自由度を妨げるものになる。単一の箱庭空間は場面の変化を単調にし、画面から感じるプレイヤーの印象を平凡なものにしないだろうか。そのような考察も、箱庭をのぞく神の所行の悦楽には代えられないのかもしれないが。

 

LAノワールは刑事が事件を解決するアドベンチャーゲームである。関係者に聞き込みをし、証拠を揃え、犯人を尋問し逮捕しなければならない。その過程は実際のところかなり地味である。論理的思考を表現することにゲームはあまり向いていないからだ。いや、この箱庭空間にとって、リアリティの大半は物質的な構造物と正確な物理計算で成り立っているからで、論理的思考を表現しうるゲームシステムをもともと構築していないことが原因であろう。もちろん、最初からそのような表現方法を採用した、例えば逆転裁判のようなゲームにおいては得意とするところではあるが、そこまで専用の書き割り画面を用いていないこのLAノワールは比較的平易な論理的表現方法に終始している。そしてこの弱点を補うための苦肉の策が、答えにより顔の表情が変わるモーションスキャン技術だった。

 

これはしかし噴飯物と言っては言い過ぎかも知れないが、結局のところ汗でも流せば済むような表現方法をわざわざ顔の歪みや視点の定まら無さといった生の表情をそのまま再現した結果、記号としてかえって分かりにくいものになってしまっている。それも分かりづらいように微妙な変化だったり、変化しているのに意味が無かったりと随分あいまいなものなのだ。また、犯人を尋問し逮捕するというこのゲームの最終目的を、ヒント機能を使って選択肢を減らしたり回答率を表示させたりして攻略するというのは、このゲームの力点が論理的思考を表現するところに置かれていないことを意味する。しかしそれは、箱庭空間を唯一のゲーム表現方法としているからこその向き不向きの問題でもある。

 

LAノワールというゲームが1947年のロサンゼルスを『体験』するゲームだとすれば、かなりの満足をプレイヤーに与えるかも知れない。ただ、ゲームを楽しみたいプレイヤーにとって、というのはほとんどのプレイヤーのことだが、これといった目新しい犯人逮捕ゲームをできるわけではないというところに失望するだろう。ゲームというものが何を表現するものなのかということが、ハード性能の向上により世界を箱庭としてそっくりそのまま表現できるということは分かった。だが、その先のゲームルールに対する進化というものは意外と古典的で古くさいままである、ということもまた証明されてしまった。箱庭世界というものは全てをその体で表現してしまうからこそ、個々のゲームルールに不自由さを与えてしまう。オープンワールドにはオープンワールドの遊び方がある、そんなことを考えさせられてしまう結果となった。

 

これまでそれぞれゲームに応じて専用の書き割り画面を用いてきたのは、もちろんハード性能の制限とは無縁ではないが、最も大きいのは制作者の頭の中にあるゲーム性を『仮想空間』としていかに表現するかという試行錯誤の産物であるからだった。全くの無であるモニタ上に『遊べるゲーム空間』をどのように表現したらいいのか、ということを箱庭空間を表現出来る前までは個々に作り上げなければならなかった。闇に覆われた世界を先人達がそれぞれのアイディアというたいまつで照らしながら、徐々に拡げていったのだ。おのおのの土地で異なる風習と社会体制がとられ、信仰する神も用いる言語も違う大航海時代以前の世界である。地図は不完全で果ての見えない地平線の向こうを知恵と勇気だけを頼りに突き進んでいた時代だ。

 

ゲームにおいて、そのような時代は終わったのだろうか。箱庭空間を作ることは最低条件、そこに適用される物理法則もある程度の正確さを求められる。そして今回、犯人を逮捕するというゲームにおいてすら、オープンワールドという世界観を採用しなければならなかった。確かに当時のロサンゼルスをドライブできるという体験は貴重だが、そこに犯人逮捕の為の論理的思考を表現できるシステムは存在しなかった。正しい答えを選択すると犯人が逮捕できるという、これまでいくつ作られたか分からないような古典的な推理ゲームの手法がそこにあるだけだった。そこだけを考えると、精巧に作られたロサンゼルスの街並みはとても贅沢で、時に無意味ではないかと思ってしまうのである。

 

ケータイにおけるガチャガチャゲームは新大陸を発見した。その収益性は倫理的問題を抱えてはいるが、現代に生きる人々のゲームに対する強度(思いの深さ)と生活環境(ケータイ端末におけるコミュニケーション)にマッチした。据え置き機におけるゲームの訴求力が美麗のグラフィックと精巧に作られた箱庭環境に集約されている現在、ケータイゲームのようなアイディアだけで作られる身軽さは存在しない。ちなみに、このゲームを開発した会社は世界で400万本以上売り上げたが破産している。

 

現実の世界というのは、地球は丸く、どこの国でも不変の物理法則で成り立っている。日本だけ人間が空を飛べるようにはできていない。しかし、ゲームの世界というのはどれだけ物理学者が研究し考察しても正解はない。そこに唯一存在する真理は『面白さへの探究心がゲームを作る』ということだろう。

 

LAノワールが見せた世界は、プレイヤーにとってゲーム性と世界が分離したようなちぐはぐな世界だった。オープンワールドと論理的思考との親和性の無さだった。

 

ゲームはプレイヤーの生活環境の変化によって世界の再構築を模索している。精巧に作られた箱庭世界と正確な物理法則は海外ゲームを通じて日本に衝撃を与えたが、表現できるゲーム性は限られている。この手法だけで今まで作られたゲームを置き換えていけば新しいゲームを作れるという幻想はLAノワールにおいて破られただろう。それぞれのゲームには適した表現方法が存在する。そしてその世界は制作者の頭の中にしかない。つまり、アイディア次第である。

 

ゲームの世界は永遠に踏破されることのない未開の大地でできている。だからこそ、プレイヤーは常にわくわくしながら新作ゲームを待つことが出来るのだ。また、そういう状況を続けることこそが制作者にとっては重要なことだろうと思う。