Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

フィクションにおける「不正解」という選択肢 〜WHITE ALBUM2

当たり前のことではあるが、人生というものは一度きりである。
生きていると様々な岐路に立たされ、その度に人は選択を迫られる。

後悔という感情は現状の不満を納得させるための苦しい方便であり、自分の選択が間違っていたと思い込むことは、他の選択肢を選ぶことが出来たという妄想を肯定するフィクションから生まれている。

理想を選べない現実というものに、人は常に悩まされ、苦しみ、もがいている。しかし、多くの場合、その理想的選択肢というものはフィクションである。つまり、もともと選ぶことを否定されたこの世の中に存在しない世界の物語なのだ。

それでも人は選ぶことが出来たはずだと思い悩む。選ぶことが出来ないのが自分、選ばなかったのが自分であると、「自分」を肯定して生きることはとても難しい。
正解の無い人生の中で、「自分」の正しさを信じ切れるほど、人は強くはない。後悔というものは、実は自分は正解を選ぶことが出来たのだという自己弁護であることを、本来そのような可能性がないにもかかわらず、「自分」に与えてくれる。

人は後悔をしなければ、まともに生きていくことはできないのだ。


WHITE ALBUM2というゲームは、少し前なら美少女ゲーム、システムだけ見るなら紙芝居ゲーム、今風の雑な言い方をすればエロゲーというジャンルにあたる。しかし、ゲームとはいえ、基本的に選択肢を選ぶことによりストーリーが変わるだけの読み物であるとすれば、ジャンル分けは何々ゲームというものではなくストーリーの内容で分けるべきだろう。
だから普通に、恋愛小説というジャンルに例えればそれで意味は通じると思う。

恋愛小説…。おそらくゲームファンにはかなり遠いジャンルではないだろうか。恋愛を取り入れたゲームという意味では、RPGやシミュレーションゲームにその痕跡を認めることは出来る。しかし、そこには恋愛に不必要な「ゲーム」という部分が存在する。友好度を上げる、パラメータを上げる。そのために敵と戦う、コマンドを実行する…。極めて無駄な作業だ。しかもストーリーと全く関係ない。恋愛と無関係だ。

恋愛というのは人間関係の中にしか存在しない。その人間関係を表現するためのゲーム性とはなんだろうか。この部分はゲームの歴史としてあまり掘り下げられた分野ではない。また、望まれてもいない。ゲームを進めるために有利になるようなパラメータを設定するぐらいにしか活用方法が存在しない。

つまり、人間関係というものは際限が無いのである。ゲームとして取り出すには情報量があまりに膨大で、あまりに複雑でしかも理不尽である。登場人物達の全行動パターンをあらかじめ設定することは困難だ。だからそれをパラメータに置き換えて、ある程度の数値を上回れば相手が好きになるように設定する。極めて安易だがそうするより他にない。正解と不正解を設定しなければゲームにならないからだ。

だから、恋愛をテーマにゲームを作ろうとすれば、それは書くしかない。不要なゲーム部分をそぎ落とし、場面説明、人物像、心理描写などを徹底的に書き連ねるしか方法がない。いわゆる紙芝居ゲームに恋愛小説が多いのは、恋愛というテーマ自身が膨大なテキストを必要とするからである。恋愛という要素自身がゲームの性質を決定してしまっていると言ったほうがいい。


さて、上記のようであれば恋愛小説を書けばいい。なぜゲームにしなければならないのか。

ゲームにするということは、その物語が不完全であることを認めることになる。ゲーム性とは常に不完全であり、不完全だからこそプレイヤーの介入する余地を与える。完全に閉じた物語を前にしては、プレイヤーは画面の前で黙って鎮座するしかない。ページをめくる作業をアクションゲームに変換したようなものが大半である。

不完全な恋愛小説。これがクリエイターに蠱惑的な魅力を与える。あらゆる可能性というものを盛り込むことが出来るこの世に存在しない世界。つまり、フィクションである。

これは少々説明が面倒だが、ノンフィクションと対の意味でのフィクションは虚構の物語一般を指す。これを敷衍して、フィクションに対してその物語の筋を変えたものを書いたとしたら、それはフィクションに対するフィクションと言える。以後、フィクションは合わせ鏡のように際限なく創造され続ける。フィクションa,フィクションb,フィクションc…というように。

これは、小説であれば否定されるべき要素である。もともとフィクションである物語は様々な選択肢を取り除いて作成されたのものであるから、取り除いたはずの選択肢をそのまま残してしまっては、初めから際限の無いフィクションを抱え込んでしまっていることになる。これではいったい何を書きたかったのか、また何を書いたのか分からなくなる。正反対の行動をとる主人公が同じ物語に同居できるはずがない。

しかし、これは禁断であるが故にクリエイターの興味をかき立てる。別の女性と付き合ったらどうなるか。ヒロインと別れたらどうなるか。本来二次創作としてファンに預けられるべき領域を侵してしまう不当行為を、クリエイターは不完全な物語として意図的に創造する。恋愛シミュレーションゲームというものが複数の女性を攻略するというゲーム性を持ち、それ自体がフィクションの中のノンフィクションというものを持たないが故に、紙芝居ゲームとして書き起こそうとするとあらゆるものが等価値にならざるを得ない。

端的に言えば、目的は重厚で壮大な物語ではなく、かわいい美少女とのコミュニケーションとCG集めにあるわけだから、固定された物語の中でストーリー上こぼれ落ちてしまう女の子をそのまま捨て置くわけにはいかないという事情がある。本来小説が持つべき物語性とはまた違う目的を持つが故に、内容は不完全になり、二次創作まで作者が自前で作らなければいけないという結果になる。

以上のような理由で、恋愛小説をそのまま提供するのではなく、主に男のプレイヤーに対して都合のいいストーリーを作成し、尚かつ複数の女性とのコミュニケーションを実現させるため、不完全な恋愛小説をゲームとして提供するのである。ガチの恋愛小説を求めない男性プレイヤーに対し、エロという糖衣を施して処方すると表現したほうが身もふたもなくて分かりやすいかも知れない。


それでは、WHITE ALBUM2について書いていきたいのだが、当然ながらネタバレが存在する。興味もなくこんなブログを読むわけは無いと思うが、一応念のため。

この物語は高校時代から始まり、大学を経て社会人になる約5年間を描いている。

高校パートは物語の発端。
主に主要人物三人の関係が描かれる。選択肢はなし。

大学パートはフィクションの詰め合わせ。
まさにゲームとして存在する理由がここにある。ヒロインとの関係修復の狭間で、あるはずのない物語が描かれる。

社会人パートは三角関係の結末。
どちらにもエンディングはある。ただし、その陰影は大きく異なる。

プレイヤーは懊悩する主人公を俯瞰的立場で眺めながら、登場する女性達の人物造形と身体造形を観劇することになる。

主人公は北原春希。春をねがうと書いて春希。これはストーリーを暗示している。
成績優秀で人の面倒見が良く、他人から頼られるクラス委員長タイプ。よくあるハーレムアニメの主人公と比べればよっぽどしっかりしており、まじめであるが故に罪悪感から逃れられずにいる。
エロゲーの主人公としては致命的な欠点を持ち、多くの女性と関係を持たなければならない状況に放り込まれることをおそらく迷惑に感じていることだろう。

メインヒロインは小木曽雪菜。誰もがうらやむ学園のアイドル。歌うことが大好きで、主人公と出会うきっかけもこの「歌」だった。この物語を創造した作者といってもよく、基本的には彼女の手のひらの上で主人公もその他登場人物も踊り続けることになる。

サブヒロインは冬馬かずさ。周りから人を遠ざける不良娘。しかし絶世の美女であり天才ピアニストでもある。最後まで春希の不倫相手のように扱われ続ける不憫な女性。天才ピアニストという肩書きは彼女を不幸にする。まともに恋愛の駆け引きができず、雪菜には逆らうことが出来ない。最後まで逃げ続け、主人公と関係を持ってしまった後、国外へ逃亡する。

三人は高校の学園祭に軽音楽同好会として参加し、一緒にライブを行うことで友人関係を築く。その後、雪菜が春希に告白し付き合うことになり、友人関係は微妙に変化していく。北原君にとっては「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということわざを痛切に感じざるを得ない三角関係を味わうことになる。基本的には、この三人を中心とした三角関係をプレイヤーは楽しむことになる。

普通の恋愛小説ならストーリーを紹介することができるのだが、上記で説明したようにこれは不完全な恋愛小説であるため内容を一概に紹介することができない。それぞれのヒロインと一緒になる結末が用意され、あまつさえこの二人以外の女性と一緒になる結末すら用意されている。どれが本当で何を伝えたかったのか、小説としては最も大事な要素をプレイヤーは感じ取ることができない。フィクションの出来不出来を批評するぐらいだろうか。

しかし、どの結末へ行くとしても、変わらない前提条件というものが存在する。恋愛シミュレーションゲームであれば関係は0から始まるので余計なしがらみというものは存在しないのだが、このWHITE ALBUM2にはこの「余計なしがらみ」が存在する。むしろ、このしがらみがあるからこそ、物語が紡がれていくことになる。

高校時代、主人公北原春希は冬馬かずさが好きだった。しかし、小木曽雪菜から告白され快諾してしまう。後日、かずさも春希が好きだったことがわかり、二人は体の関係を持ってしまう。直後、かずさはプロのピアニストになるため高校卒業と同時に海外へ行くことになり、春希と雪菜は気まずい雰囲気のまま日本に取り残されることになる。

この「余計なしがらみ」は5年後、かずさが再び日本へ帰ってくるまで三人の関係を縛り続け、春希がどれだけ乗り越えたと思っても次々と新たな問題を呼び込んでくる結果となった。

この不完全な恋愛小説は多くのフィクションを抱え込んでいるのだが、フィクションの中の真実、つまりノンフィクションも内包しているという構造になっている。それぞれが完全に独立しさえすれば両ヒロインには都合のいいストーリーが書けるはずなのだが、それを作者は許さない。いや、それを雪菜が許さない。

雪菜は春希がかずさのことを、かずさが春希のことを好きだと知っていながら春希に告白した。

それまでは冬馬かずさがメインヒロインとして存在し、美人の天才ピアニストと世俗にまみれる平凡な主人公とのラブストーリーが展開されるはずであった。人を寄せ付けない不良娘が、おせっかいな男によって目的のない無意味な生活から更生するきっかけを得て、恋心を抱いてしまう純愛ラブストーリーである。
実際のところ、これで一本恋愛小説を書けば十分に読むに耐えうるものが出来上がるだろう。二人の関係を知った雪菜がおとなしく身を引いて祝福すればいい。

しかし、エロゲーというシステムの関係上、完全性は否定されなければならない。不完全にするべく懐に忍ばせた匕首で春希とかずさの関係を断ち切ったのが雪菜である。この断ち切り方は物語のアクセントといったようなものではなく、このゲームのシステムとして要求された行為である。

彼女は閉じた世界を再び混沌に陥れた恐怖の魔女であり、また新世界の創造主だった。彼女はその後、春希の正妻の座を明け渡すことなく物語を紡いでいく。春希が他の女性と付き合うには雪菜の同意が必要であり、雪菜を捨てることは春希に多大な精神的負担と身体的ダメージを与える。

システムとして、エロゲーは複数の女性と付き合う事を内包している。当然、このゲームも同じシステムを採用しているのだが、雪菜以外の女性は全て春希の不倫相手のような扱いを受ける。もちろん結婚をしているわけでもなく、運命的に強固な絆で結びついているわけでもない。高校3年の後半、たまたま軽音楽同好会で一緒にライブをして仲良くなったという事実があるにすぎない。

この物語全体を縛る要素としては非常に脆弱で説得力に欠ける。主人公が雪菜のことが好きで一生離したくないと思っているのだとすれば、エロゲーは成立しない。そこまで覚悟を決めているわけではないとすれば、雪菜以外の女性と付き合う事に罪悪感を抱く必要はない。物語の完成度が高ければ高いほど、この矛盾点は大きくなっていく。主人公の病的とも言える倫理観への服従は時に度を超しており、高校卒業から3年間、雪菜のみならず他の女性とも距離を置くことになる。


誰もがこのゲームをすれば思う。この物語は春希と雪菜の物語であることを。雪菜を選ばなければ結末(最終章)へたどり着くことはできず、三人が共に救われる未来が描かれることはない。であるならば、雪菜以外を選んだルートはやはり失敗なのではないか。選択されるべき未来ではないのではないか。同じフィクションでありながら、これは不正解なのではないか。そう、思ってしまう。

人は後悔をしなければ生きていけない。その後悔は二度と選ぶことが出来ない選択肢だからこそ価値がある。理想の選択肢を選ぶことが出来る自分はこの世界には存在しないが、後悔はフィクションを前提としてそんな自分を与えてくれる。二度と後悔はしないという宣言は、正解のない現実の選択を責任という行為に転化することができる。責任をとれば、どんな選択も正解になり得る。

この物語はフィクションである。事実をねじ曲げて物語を書いているわけではない。クリエイターが書けば、それがこの世界での真実になるのだ。

雪菜以外を選んだルートは主人公が責任を取りさえすれば正解になる。彼にとって、いやゲームの主人公にとって、正解とは責任を取るべき選択肢の数だけ存在する。フィクションにおける不正解とは本来存在するはずがないのである。


この物語には後悔をする人物が二人いる。北原春希と冬馬かずさだ。
春希は雪菜と付き合っていながらかずさと関係を持ってしまったことに後悔する。
かずさは三人の友情と雪菜の想いを踏みにじったことを後悔する。

では雪菜はどうか。彼女は何かを後悔しているだろうか。

彼女は後悔しない。春希を選択したことをまっすぐに正解と信じて、生活の全てを捧げようとする。大学時代に出会う他の女性達もそうだ。彼女達は雪菜とは直接関係のない生活をしているので、春希さえ自分を選んでくれればそれ以上の悩みを抱えることはない。雪菜を裏切ったという後悔を持つ必要が無いのだ。

ここで重要なのは、雪菜以外の女性を春希が選んだ場合、雪菜はその度に振られるのである。そして、その姿は平行世界を俯瞰してみているプレイヤーに何回も晒される。春希の幸せを願うからこそ自ら身を引き、泣きながら友人達に縋り付く姿は、プレイヤーに否応なく苦い後悔を与える。これは違う、これは選択するべき世界の姿ではないと。

雪菜は自らが春希と結ばれない世界をすら、プレイヤーに後悔を与えるフィクションとして利用する。物語を本来あるべき姿へ導くため、他のフィクションとの差別化を図ろうとする。

物語をどれだけ作成しフィクションの数を増やし、本来選択すべきではない二次創作を作り続けたとしても、物語はそれ自体の出生の正当性を示そうとする。一つの目的に向けて強力な指導力を発揮し物語を結末に向けようとする本来の恋愛小説とはシステムが違っていても、複数のフィクションから物語の正当性が自然と浮かび上がってしまう。フィクションにおける「不正解」という選択肢は物語の出生の正当性まで否定できないという形で存在することになるのだ。

この被害を最も受けるのが冬馬かずさである。彼女は春希と関係を持ってしまったことを、雪菜との友情を捨ててまで春希を奪ったことを後悔する。だから彼女は5年ぶりに春希と出会っても自らの思いはギリギリまで胸の内にしまいこんで、二度と後悔はしないと強く心に誓う。
しかし、本来はこの世の中に存在するべきではないフィクションを作者は用意する。かずさにも春希と一緒になる可能性を与える。かずさはふらふらと、そのありうべからざるフィクションに足を踏み入れてしまうのだ。

その結末はゲームで確認して戴きたいが、少なくとも後悔が消えているということはない。深い後悔とともに、自らの選択が間違っていないとしきりに自分に言い聞かせる姿は悲壮感すら漂っている。雪菜と春希が一緒になるルートと比べてみれば、かずさはむしろ雪菜ルートによって救われていることに気付くだろう。

5年ぶりに出会った春希と運命的な再会を果たし、雪菜との友情を維持した上で周りから祝福される物語だって書こうと思えば書ける。しかし、この展開だけは雪菜ルートを完全な意味で否定する等価値な物語になってしまう。これだけはどうしても、例えフィクションだとしても作者も雪菜も許せなかった。いや、意図しない物語の正当性が書くことを許さなかった。


このゲームのような様々なフィクションを内包するシステムは、登場人物それぞれにスポットをあてて描くことが出来る。エロゲーのような複数の女性を主人公が相手にするようなゲームには向いているだろう。しかし、プレイヤーからしばしば散見される「へたれな主人公」というレッテルは、スポットが実は主人公に当たりづらいというシステムの弱点を露呈している。俯瞰視点から見ているプレイヤーからすれば、ただの浮気者にしか見えない。

どの女性とも付き合う事が出来るという状況は、言い換えれば優柔不断であり自意識を持たない操り人形のようなものだ。それがゲームシステム上致し方のない事だとしても、欠点であることは否めない。決断の半分はプレイヤーにゆだねられているとはいえ、プレイヤーと主人公の乖離はいかんともしがたい。この部分においては、それぞれが完全に分離している恋愛シミュレーションゲームのほうが優れている。

正直、これだけのものを書いてエロゲーという世界に埋没するというのは惜しい気もするが、商品に徹した恋愛小説のあり方というものを感じとることも出来る。小説として評価されない作品に膨大なテキストを提供した作家は、しかし、物語の正当性まで否定することはできなかった。幸せな家庭というものにコンプレックスを持っている主人公は、家族の愛で育てられたような雪菜に惹かれるのは当然なことだった。そして、同じようなコンプレックスを持っていたかずさも雪菜によって自分の世界を与えられるという物語は、本来強烈に描きたかった本質だろう。好き嫌いだけで対立する三角関係に新たな解法をもたらしたのは、他の誰でもない小木曽雪菜であったのだから。


昨今、物語というものが乱発され、これまで人の目に触れることのないレベルの作品まで書店に並ぶことが多くなった。レーベルの多様化は市場の拡大を産み、消費者の趣味嗜好に適応するため先鋭化された。エロゲーというジャンルはその中でも独特な立場を占め、ある意味普遍的な欲求の具現化としてその長い歴史を持つことになった。

作家になるために著名な賞を取らなくても、物語を発表する場は多くある。特に、ゲームにおいては名のある流行作家が関わった作品はごく微量で、またそれが売れる原因にはならない。ゲームとしての評価はストーリーも多くの部分を担っているはずだが、実績のある作家を採用することがゲームの質を高めるとは一概には言えないというジレンマがある。それは物語を表現するためにゲームがあるわけではなく、ゲーム性を表現するために物語が必要になるという事情による。

その中で、紙芝居ゲームというのはテキストが大半を占める独特のものだ。ゲーム性は選択肢によるフィクションの増殖ぐらいで、ほとんど小説と変わらない。イラストと音声がある分、こちらの方がよほど手間がかかる。物語の表現方法として、小説、マンガ、アニメ、映画など色々あるが、ゲームも後発ながらその存在感を増しつつある。ただ、ストーリーを評価される土壌が他の分野に比べて未成熟で、またその必要性をあまり感じてはいない。ゲームとしての面白さは物語の完成度だけに依拠しているわけではないからだ。エロゲーなど、Hシーンだけ再生されてストーリーをまともに鑑賞されない作品も存在するだろう。

WHITE ALBUM2はそういう作品群の中でも物語にかなり比重を置いた内容になっている。しかし、これがエロという糖衣をまとわない形で世に出た場合に受け入れられるかどうかはわからない。主人公の行動というものに感情移入をする読者としては、彼の極めてゲーム的な立ち位置は小説としての評価を受けるべきものではないかも知れない。

そういう意味でも、ゲームというものは物語にどこまで突っ込んでいくべきか、やはり小説や映画とは全くの別物としてとらえるべきか、とても難しい問題だと考えさせられる。WHITE ALBUM2はそのギリギリまで深く足を突っ込んでいき、物語の正当性という壁にぶち当たった結果、フィクションに不正解というレッテルを貼らざるを得ないという状況に陥った。それが悪いわけでもないし、プレイヤーによっては雪菜エンド以外を好む人もいるはずだ。

不完全な恋愛小説とは我々にいったい何を与えてくれるのだろうかと、正解のない答えを探し続けるしかないのかもしれない。