Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

Wiiリモコンの挑戦〜ゼルダの伝説スカイウォードソード

まず、このゲームをプレイしたことがあるだろうか?
ゲームファンなら誰でも知っているほどの知名度を持つこのシリーズは、今回30万本ほどのセールスで終わった。

デジタル放送が始まりHDテレビがどこの家庭でも利用されている現在、時代遅れのSD画質では満足できないというプレイヤーも多いだろうが、おそらく買わない理由はそんなところにはない。

ゼルダの伝説はとても集中力を必要とするゲームだ。気軽にとか、ボタン連打で展開を打開するというようなことはできない。問題を解くためにひとつひとつ適切な道具を使い、適切な行動をとることを要求される。次々と出される課題をクリアしていくうちに、ようやくゴールが見えてくるという内容である。
つまり、いったんプレイヤーは不安と苦悩に満ちた状況になり、努力と工夫を要求され、その解法を忠実に再現することによってゲームを進めることができるのである。

これだけ書けば当たり前のようにも思えるが、果たして娯楽としてこれが正解なのかどうかは評価がわかれることだろう。これこそがゲームと言う人もいるだろうが、ゼルダの伝説についてきたプレイヤーは30万ほどだったということだ。
ゲームは嗜好品であるから好きな人が何人だろうと求める人を満足させる内容であれば商品としては成功である。売り上げとゲーム内容はリンクしないから、売れなかったからといって面白くない作品であると断定することはもちろんできない。

しかし、Wiiリモコンを活用したアクションゲームの開発は、Wiiというハードが存在するための根本的な必要条件ではないだろうか。そのタイトルとして選ばれたゼルダの伝説がこの売り上げでは、Wiiリモコン自体の存在意義を疑われてもしかたがない。

つまり、今作のゼルダWiiリモコンと一蓮托生の関係になっているといっていい。Wiiリモコンで快適に遊べるというレベルを超えて、Wiiリモコンによる新しいゲーム体験をユーザーに提示しなければならない。その試みは成功したのだろうか。



Wiiリモコンの役割

Wiiリモコンは十字キー・アナログスティックと各種ボタンの役割を兼ね備えた入力デバイスである。Wiiリモコン自体の移動のほか、ひねり、振りの感知もする。例えば、ゲーム上で剣を振ろうとすると、従来のコントローラーならボタンを押すことによって行われる動作が、Wiiリモコンを振ることによって直感的に反映される。特に、今作のゼルダWiiリモコンの移動が腕の移動と同期されて上下左右斜めのあらゆる方向から剣を振ることが出来る。これまでのアクションゲーム、RPGなどで行われていた「剣で攻撃する」という行為が細かく分割され、相手の状況に応じて振る方向を変えなければならない。また、右に構えて相手の意識を引きつけておいて逆から切り込むなど、今までにないアクションが可能になった。

剣以外にも、バクダン、ムチ、弓など、実際に腕を動かす動作に近い操作感を実現している。これまでボタンを押すという行為に集約されていたゲーム上の行動がWiiリモコンによって多様なアクションに生まれ変わった。そして、このアクションとはプレイヤー自身が行うアクションのことを意味する。ゲームがプレイヤーにアクションを求める。Wiiが目指したゲームとプレイヤーの新しい関係を今作のゼルダはまさに体現した形になった。




・アナログであることとデジタルであること

おそらく、制作者側の意図は達成された。Wiiリモコンによる新しいゲーム体験は今作のゼルダによって創造されたのだ。これはいわゆる「端緒」であり、ここから様々なゲームがゼルダを参考にしWiiリモコンによるゲームとプレイヤーの関係を築いていかなければならないのだろう。しかし、それにはプレイヤー側の求めに答える形でなければならない。つまり、必要とされているか否かだ。

プレイヤーとゲームの関係というのは命令する側とされる側という関係に置き換えられる。この関係性はゲーム内容に大きく左右され、プレイヤー=キャラクター、プレイヤー=管理者、プレイヤー=傍観者、といったようにゲームとの距離感の違いによってさまざまな状況が考えられる。Wiiリモコンの存在価値はもちろんプレイヤー=キャラクターという状況においてもっとも発揮されるだろう。

Wiiリモコンというアナログデバイスは現実の行動における動作を忠実に再現できる。剣を振るという行為をWiiリモコンの動きのままに再現できる。これは確かにゲーム性の新たな地平を開拓できるだけの可能性を感じるが、ゲームが求める結果というものは往々にして決まっている。つまり、正解か不正解か、だ。

柔軟な剣の軌道は極めてアナログ的な動作の再現だが、倒したか否かはデジタル的である。どのような過程を経ようと相手の体力を減らすことは数値として処理される。体力ゲージの低下はダメージ蓄積量の目安としてデジタル的に表現される。結果的に体力ゲージを0にすることが目的という単一の目的は柔軟な剣の軌道という存在価値に疑問を投げかけてしまう。

これはあらゆるゲームにも言えることで、唯一この疑問から逃れられるのは対戦ゲームにおいてである。格闘ゲームでもFPSでも、アナログ的な過程の細分化というのは人との駆け引きにおいて最も発揮される。ゲームプログラムを相手にした場合、そこにどうしてもデジタル的な嘘くささがが感じられてしまうのだ。

特に、ゼルダの伝説というのはゲームシステム的にデジタルの集合体といってもいいほど完璧なまでに管理された世界で構成されている。リンク自身の剣と盾によるアクションはWiiリモコンのアナログ的な操作を十分発揮できるのだが、その結果をアナログ的に表現できるような世界には存在していない。ゼルダの伝説の世界はデジタル的に完璧であるがゆえにアナログ的Wiiリモコンとの関係性をうまく築けていないという難しい問題があるように思う。



ゼルダの伝説の世界

デジタル的に管理された世界とはなんだろうか。ゲームである以上ONかOFFかで管理されるのは当然だが、システムとして組み込まれているというと話が違ってくる。

ゲームをドミノ倒しに例えるとわかりやすい。ドミノ倒しは前の牌が倒れることによって後ろの牌を倒し、その連鎖で並べた牌を倒していくゲームだ。この場合、牌が倒れる条件は前のドミノが倒れて後ろの牌にぶつかることである。それ以外の条件で倒れた場合や後ろの牌が倒れなかった場合、ドミノ倒しは失敗となる。
このドミノ倒しの列がひとつしか無い場合、途中で止まってしまえば失敗である。しかし、複数あればどうだろうか。どれかひとつでも列が最後まで倒れれば成功なら、目的達成のための条件はゆるいことになる。

ゲームというものは目的が用意されているが、目的を達成するための条件の難しさが難易度とすれば、条件の種類(列の数)は自由度と言えるだろう。条件がゆるければ達成できる別の正解を求めればいいのだが、正解がひとつしかなければその答えを求めるため努力し続けなければならない。つまり、自由度がないということだ。ゼルダの伝説はドミノ倒しの列がひとつしかないゲームシステムと言える。

このような世界において、Wiiリモコンのアナログ的な自由度は目的達成のための自由度のなさのために潰されてしまう。システムがWiiリモコンの振り方を強要するので、プレイヤーとしてはWiiリモコンを振る楽しみが半減してしまうのだ。
Wiiリモコンを用いたアクションゲームというのはWiiリモコン前提で作られなければならない。それがゼルダの伝説というゲームシステムありきの世界で使われることが条件になった場合、Wiiリモコンは残念ながらこれまでのアクションを代替するだけの存在になってしまったのではないだろうか。Wiiリモコンによる新たなゲーム世界の表現は、ゼルダの伝説というゲームシステムの世界観に付き添うような形になり、プレイヤーに新鮮なプレイ体験を感じさせるまでには至らなかった。ここに今作の最も大きな問題点があったと思われる。



Wiiリモコンの可能性と現実

ゼルダの伝説は今後も作られ続けていくだろう。しかし、そこにWiiリモコンのような入力デバイスはおそらく必須ではない。WiiUにてそのようなリモコンがでないとすれば、ゼルダの伝説にとってWiiリモコンとのコラボレーションは今作が最後になるかもしれない。

Wiiというハード、Wiiリモコンプラスという入力デバイスが必要というハードルは、多くのプレイヤーにとって決して低くはなかった。それでも買って遊んだプレイヤーが満足したかどうかは人それぞれだが、欲しいと思った人はそれほど多くはなかった。

Wiiリモコンを振るという行為はこれまでにないゲーム体験をプレイヤーに提供し、その意味ではWiiというハードは多くの人々に受け入れられた。特に、ライトユーザーと言われるパーティーゲームの延長で遊ぶ人々には、操作のわかりやすさがゲームとの垣根を低くし、リビングのTVを占領するに足る理由を与えることができた。

今作の不幸はそのようなライト層には難しすぎ、ヘビー層にはWiiリモコンを振る操作が無駄な労力に思われてしまったことだ。その中間層こそメインターゲットであると思われるのだが、名前だけで買われるほどの魅力が今作にはなかったのだろう。

ストーリーに関しても問題がある。
空に浮かぶ島に住む人々とリンク達の物語はほとんど関係がない。リンクの大冒険はゼルダと少数の人々だけが知り、多くの人々は何が行われたかも理解できない。ストーリーはゼルダに振り回されたあげく封印されし者を倒すといったもので、世界を救うというような高揚感は無い。リンクは人知れず世界の危機を救うという正体不明のヒーローの役割だ。

また、リンクが地上に用意されたマップを空から降りてクリアしていく構成は、世界観の構成としてはいかにも淡泊で、プレイヤーに作業感を植え付けてしまう結果となった。ゼルダの伝説のゲームシステムと組み合わさるとそれが顕著になる。セーブのしやすさとマップ選択の簡便さはいつでも遊べるように時間のないイマドキのプレイヤーに配慮したのだろうが、物語に没頭できるような深みを感じさせず今回ばかりはうまく調和しているようには思えなかった。

以上、ざっと魅力を無くしていると思われるものを上げてみたが、もちろん人によって様々に評価がわかれるだろう。ただ、面白かったから人に勧めたいというほどではなかったのが残念だ。遊ぶためには多大な労力が必要になる。それを面白いと思えるプレイヤーばかりではないことは、ファミコン世代の僕としてはひしひしと感じている。

Wiiリモコンありきの全くの新作を遊びたいとは思うが、おそらくもうそんな時間はないだろう。落ち着いた先はパーティーゲームであり、両手で持つコントローラーの優秀さを思い知らされる結果となったのは、制作者としては本意ではないはずだ。

だからこそ今作のゼルダの伝説はすばらしい挑戦であった。それを否定してはゲームの可能性を狭めることになるし、プレイヤーとしても不幸なことだ。

もっとクリア条件がゆるく、敵を倒すと経験値がもらえてレベルが上がるようなシステムで何度もマップに挑戦したくなり、中ボスクラスの敵がたまに現れて色々なアイテムを駆使して倒すようなゲームだったら、Wiiリモコンを振り回して楽しく遊べそうなのだが、それはゼルダの伝説ではないだろう。しかし、そこまで挑戦して欲しかった。
ゲームシステムをWiiリモコンの方に近づけて欲しかった。

もうこれでWiiリモコンの挑戦が終わるとなると、ちょっと寂しいのだ。