Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

 やるドラの真実

〇ストーリーは読者が作れるのか?
ストーリーを自分で作る…それはゲームブックが作られた頃からの「ゲーム」におけるひとつの夢であった。ひとつの項目を読み進めていくと選択肢があり、読者の選択によってストーリーが変わる。「やるドラ」とは、文字であったゲームブックを映像に換えたものである。すなわち、各項目は映像で語り、選択肢は文字で選ぶというゲームブックの映像版である。

もともとゲーム性はゲームブックにおいて完成しており、あとは表現の方法を変えるだけといった状態だったので、今回のPS2ソフト「スキャンダル」は「ダブルキャスト」から続いた「やるドラ」の最終形態と言っていい。DVDで作れたアニメは当たり前のごとくビデオアニメよりもきれいで、PS時代のいかにもゲーム機でアニメしてます的な印象はまったくない。しかしここで悲劇なのは、映像面での弱点が克服されたことでゲーム性が実はゲームブック時代から変わっていないことに気づかされることだ。

「やるドラ」の将来というものが見えなかった時代、フルアニメーションで行われるゲームブックは新たなゲーム表現の始まりだと思われた。しかし、アニメが本家を超えてやりたかったことがやれてしまった今、結局はゲームブック以外のなにものでもないことが浮き彫りになってしまった。

○ストーリーは所詮ひとつ
どんなに項目を増やしてストーリーの幅を広げても、そのストーリーの目的というものがあるはずだ。だれが主人公なのか、どんなシチュエーションなのか、なにをしなければいけないのか。間違った選択肢を選ぶとゲームオーバーというのはよくわかる。それは作者の考えたストーリーにありえないものだからだ。また、つぎはぎのストーリーにも限界がある。いくら自由な選択肢といっても「ダブルキャスト」から「スキャンダル」に話しがつながるはずがないし、「人間失格」につながるわけでもない。ある程度限られたストーリーのなかで広げられるものは広げるといった感じだ。

また、どうしてもプレイヤーは「視聴者」になっているわけで、自分でドラマをやっているわけではない。「やるドラ」の定義がゲームブックをなんら超えていない以上、「スキャンダル」で完成形が見えてしまった今、「やるドラ」の未来は非常に暗いといってもいいだろう。

○ゲームとストーリー
そもそもストーリーとは、視聴者に向けて練り上げた作者の創作物であるはずだ。この定義においては、プレイヤーがストーリーに入り込むことは拒否されている。作者が完璧に練り上げたストーリーに変更が加えられたら、それは作者の作品ではない。読み進む読者の気持ちを考え、人物登場のタイミングや真相の暴露など、絶妙の構成であるからこそ名作となり得るのだ。

RPGにおいて「シナリオ」と呼ばれているのは「脚本」のことである。渡された演技者はそれを受け取りそれを元に役を演じるのだが、表現方法は演技者の技量にかかっている。「泣く」とあっても場面に合わせた最も観客を感動させる「泣き方」があるはずで、それができるのが名優である。RPGはプレイヤーが演技者となり優れたシナリオライターの書いた脚本を演じていく。しかしそれは立ち居振舞いすべてを既定されているわけではない。いつボスに勝っても、どのレベルで戦っても、どの街へ行こうとも、それは演技者が決めることである。ゲームは観客に見せることが目的ではなく、いかに演技者が気持ちよく役になりきれるかがゲームシナリオの要であって、ストーリーに絡め取られているわけではない。

では「やるドラ」とはなにを目指していたのか。

○「プレイヤーが演じるドラマ」の幻想
ゲームにおける進行は「シナリオ」として定義されるものであり、「ストーリー」としてではない。プレイヤーは観客ではなく演技者であり、演技者を最も気持ちよくさせるものが良いシナリオである。「やるドラ」とはもともとゲームブックであり、ゲームブックは文字であったからこそ読者は演技者たりえた。読み進むうちに主人公は心の中で自分となり、描かれる大地や建物を自らの世界とすることができた。読書とは孤独であり、文字は心の中で具現化するものである。

しかし、「やるドラ」は映像を武器にすることで逆にゲームブックにあった「演技者」としての役割を放棄させる結果となった。どうしても、画面に映る登場人物に対面する「自分」を意識して入り込めないのだ。アニメーションが本家を超えたことにより「やるドラ」は目的を達成してしまった。だから、ゲームブックからのゲーム性をまるで変えていなかったことに気づかなければいけない。

弟切草」というゲームがある。「サウンドノベル」と呼ばれ、これはゲームブックに背景と音をつけたものだ。しかし、項目は文章で書かれている。おそらく、制作者はゲームブックにおける「ゲーム性」を敏感に嗅ぎ取り、文章をそのまま残したのだろう。フルアニメーションによるゲームブックも考えついたのではないか。しかし、ゲームブックにおける主人公が読者であることを重要視したため、文章をそのまま残すことがゲームブックの面白さを最大限発揮する方法だと思い至ったのだろう。

文書が電子化されれば本を読むことはプログラムを読むことと同じになる。つまり、すべてがサウンドノベルにできるといってもよい。ミステリーや冒険小説などは大いに活用できるのではないか。あくまで文章を引き立てるために使われる小道具として。しかし、「弟切草」はゲームブックである。完璧なストーリーを読者に伝えることが目的ではない。洋館に迷い込んだカップルが不思議な現象を体験するというシチュエーションで、考え付く限りのシナリオを提供したものである。

ここで重要な問題がある。はたして、ゲームブックはまだ面白いのだろうか?

ゲームブックの寿命
「やるドラ」や「弟切草」がゲームブックのゲーム性をそのまま継承していることは疑いない。しかし、元のゲームブックはもはや書店から消えてしまった。とっくに娯楽としての役目は終えてしまっているのだ。

では「弟切草」はなぜ新たに受け入れられたのか。それは「音」と「映像」を組み合わせた新規性である。ゲームブックの持つゲーム性を埋もれさせることなく、新たにリメイクしたことでメディアが創造された。それは我々の読書体験をより豊かにさせてくれる夢を抱かせるに十分なものだ。その後、「サウンドノベル」はいくつも制作されてひとつのメディアを確立した。それはゲームブックが新たに生まれ変わった瞬間でもあったのだ。

しかし…と言わなければならないのか、ゲームブックはやはりゲームブック。作者が考えた項目以外はもちろん読むことができない。ということは、作者は大量の項目を作らなければならない。少ない項目ではあきられるので多ければ多いほどよい。だが、それはひとつのシナリオになるのか?バラバラに散らばっている項目を偶然に組み合わせたらすばらしいストーリーになっていた…と、考えるのは無理ではないのか? もちろん、どのような選び方をしても面白いストーリーになるよう制作者が考えればよいのだが、膨大な時間がかかってしまうだろう。ゲームブックが衰退した原因、それは制作にかかる時間とそれに見合う面白さが釣り合わなくなったからではないか。

世の中にすばらしい小説家はたくさんいる。しかし、その能力はストーリーテラーとしての才能でありゲーム作家としての才能ではない。ゲームブックというものがゲームである以上、それは別の才能が求められる。「弟切草」の面白さはシナリオの原案を考えた小説家とゲームクリエイターとの協力がなければ実現しなかった。それは、安易なフルアニメーションといった道をとらず、あくまで音と映像は文章を盛り上げる小道具として用いたことに現れている。「弟切草」を制作したチュンソフトは、その後「かまいたちの夜」と「街」という「サウンドノベル」を制作しており、いずれも「どうすれば面白くできるのか」といったゲーム作家の観点からゲームが作られている。

しかし、その後は作られていない。もう、ひとつのメディアとして成長してしまったのでチュンソフトが牽引する役目は終わったのだろうか。または、ゲームブックと同じ運命を辿ってしまうのか。小説の「挿絵」の代わりに音と映像を用いるという方向ならいくらでも未来は広がると思うのだが、ゲームブックというゲーム性はいささか…。

○やるドラの未来は?
「やるドラ」は残念ながらゲーム性を重視してはいない。完全にアニメの観賞が目的になってしまっている。この方向では「やるドラ」の未来は暗い。また、DVDというのはもちろんデジタルなので「やるドラ」と同じことができる。つまり、ゲーム機(PS2はどっちなんだろうか)で行わなくともストーリーやラストを数種類楽しむことくらいはできるのだ。しかし、それは過去に選んだ選択肢が反映されるものではなく原因と結果が一致しているものに限られるが。

サウンドノベル」は過去の選択肢次第で同じ選択肢を選んだとしても結果が変わるようになっている。それは「やるドラ」でも一緒だが、じゃあどことどこがつながっているのかといったことが非常にわかりにくい。特に「やるドラ」の楽しみとして達成率100%を目指そうとすれば、何度もやり直してつながりを発見しなければならない。それは非常に苦痛である。もし、これが「やるドラ」のゲーム性とすればはっきり言ってつまらない。

ゲームブックといってもそれは作者のストーリーを読んでいるだけである。それを自分でストーリーを作り上げているかのように楽しめることがゲーム性であった。「やるドラ」は自分でストーリーを作り上げている実感はなく、結果がどうなるかといった興味が先を引っぱる。それは、プレイヤーが「観賞者」になっている証拠だ。よって、すべてを見てしまったらもう興味はない。そういう意味では賞味期限が短いゲームと言えよう。

また、アニメは制作に時間がかかる。これ以上の選択肢の増加はほぼ不可能ではないか。増やせば増やすほどお金も時間もかかる、それはソフトの価格にも跳ね返ってくる。ゲーム自体の魅力があれば少々高くても需要はあるが、はたしてありますか? かなり疑問である。

物づくりで一番大事なことは、「なにを作りたいのか」といった動機である。「やるドラ」でやりたかったことは「高品質のアニメを見せること」であったとしか思えない。もちろんこれも意義のある動機であるが、ならば優秀な作家を用いてアニメを作ればよい。わざわざ分岐を作ることは物語の不完全性をみずから認めることにもなる。不完全性を楽しむことがゲームの本質であるならば、分岐のない「やるドラ」は始めからゲームになっていないことになる。

また達成率100%という設定自体が限界を提示しており、すべてのアニメを見るだけがゲームの目的になってしまっている。もはやゲームブックは飽きられており、この路線での新しさはない。だが、文字のみで綴られる読書がひとつの文化として定着しているのは形式に飽きないからではない。「人の物語」を言葉で語る文化を何百年かけて作り上げたからである。文書の形式、題材、表現方法、これらは時代により変化しつづけている。

ゲームブックの特色は「やる度にストーリーが変わる」ことにある。それは項目の量を増やすことよりも「物事の連関」の表現方法を追求することにアイディアを絞ったほうが良い。アニメを採用することは金と時間が許せば可能だが、ゲームを面白くするためにアニメが絶対に必要とは思えない。どこまでプレイヤーの「やるドラ」度を上げられるか、本来の目標をもう一度考え直して欲しい。