Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

ただのゲームという境地〜三国志大戦

今、『三国志大戦』について書くというのはちょっと時期がずれているとは思う。
ゲーム自体は既にトレンドの佳境に差し掛かり、影響力は大方のゲームファンに及びそして吸収されている。
現在はゲームシステムの微調整と追加カードというカンフル剤を打ち続ける延命治療の段階だ。

だからちょっと今更な感があるところはご容赦願って、三国志大戦について書いてみようと思う。

このゲームの大きな特徴はカードを使用することである。プレイを終えるたびにカードが排出され、それを集めることによってゲームに活かしていく。単純にこのようなカード収集の面白さもこのゲームの魅力の一つである。

しかし、最大の特徴はマウス、キーボード、コントローラーなどの入力デバイスとは違い、カードを動かすと画面上の部隊も動くという、将棋の駒を実際に動かしているような直感的な操作方法を提供していることだ。

このような特殊な入力デバイスはDSのタッチペンやwiiコンなどのようにプレイヤーに新鮮な感動を与える。簡便な操作方法により奥の深い戦略も味わえる。これまでのゲームクリエイターが表現したかった戦闘ゲーム(戦争ではなく)を最もうまく表現しているのではないだろうか。実際ほぼこのようなゲーム内容はいくつものゲームで表現されてきたが、カードそれ自体を動かすということによって全く新たな次元のゲーム世界を創り出すことができた。おそらく戦闘の表現方法だけを考えていてはたどり着けないだろう。カードを使う、カードを読み込む盤面がある、ネットワークにつながっている、この三つの要素から考えなければいきなりは作れない。これは精神よりも身体がゲームを創造した例の一つだろう。そういう意味では奇跡的な偶然の産物とも言える。新たなゲームの創造というよりも新たな発明といったほうがいいのではないだろうか。

リアルタイム戦闘をカードを使用することによって表現した、これが三国志大戦である。

さて、このように戦争をカードや駒を使うことによって表現するゲームは極めてポピュラーで、おそらく最も昔からあるゲームのひとつではないだろうか。そしてこれはコンピューターゲームにおいても碁盤目上に区切られたフィールドを使用して部隊をぶつけるゲームは多く存在し、いわゆる歴史シミュレーションゲームというものはこの延長線上で作られ続けた。

これまでの歴史シミュレーションゲームから多くのものをそぎ落とし、対戦ツールとしての純粋化を図った結果がこの大ヒットというのはゲームとしての存在意義を考える上での重要なヒントになりそうである。

この三国志大戦が生まれて何が創造され何が失われたのか。長くこの国を支配してきた歴史シミュレーションゲームを考察することによって、現在のゲームが置かれている状況を考えてみたいと思う。


・戦争をゲームとして表現するということ

日本には昔から歴史シミュレーションゲームというものが存在する。
言わずもがな、コーエーの人気シリーズである。

このゲームはある一時期の時代状況を背景に、それぞれの土地の支配者による国の取り合いを表現する。自然とそこには君主と武将と国と人民が存在し、戦争を行うことによって支配する土地を増やすことになる。

ゲーム性が存在するのは主に戦争の場面である。国の経営、武将の引き抜きなど魅力的な要素は他にもたくさんあるのだが、いかんせんコンピューターとの戦いでは主要な駆け引きにはなりにくい。カードゲームのような人間くさい読み合いを期待できないからだ。だからこそ、時間のかかりにくい外交戦略の読み合いを主にするゲームが出てきてもいいとは思うが、これは蛇足。

ともあれ、戦争をするということは当然国同士が衝突することを意味し、そこには政治的な駆け引きが生まれる。逆に言えば、戦争だけを抜き出して考える、つまりスポーツのように考えることができないことを意味する。歴史シミュレーションゲームが戦争を取り巻く外的要因を表現してきたのは当然の事と言えた。

このようなゲームにとって戦争とは力関係を意味するものである。これは現実にとても近いもので、多くの場合戦争は戦力をいかに多く投入するかによって勝敗が決する。勝敗は戦う前から決している。多くの歴史シミュレーションゲームにおいて、戦争は戦力をぶつけるだけのものであった。それが現実、それがシミュレーションである。

そういう意味で言えば既に目的は達している。だが、ゲーム的な広がりは大して望めなかった。どんどん他国の武将を傘下に置いて支配する土地を増やした結果、終わってみれば元々どこの国の軍だかわからないような圧倒的な戦力で他国を制圧するゲームになってしまった。唯一と言っていい戦争行為というゲーム性はここにおいて崩壊してしまっている。

ならば武将自体に固有の能力をつけてはどうか、誰でも引き抜ける状況を変えてはどうか、少数の軍勢でも勝てるルールを作ってはどうか…。クリエイターは近づいた、戦争を主目的とするゲーム作りというものに。RTSを参考に、RPGを参考に、カードゲームを参考に。もうほとんど三国志大戦に近づいていたはずだった。

しかし、そのようにして生まれたゲームは歴史シミュレーションの範疇に収まらなくなってきた。いったい何が目的だったのか、戦争だけを抜き出して遊ぶのならタクティクスオウガのようなチェス型シミュレーションゲームや、三国無双のようなアクションゲーム、遊戯王のようなカードゲームでいいじゃないか、と。

歴史シミュレーションゲームは戦争だけを楽しむものではないはずである。各統治者の与えられた状況を実際の歴史に照らし合わせて表現し、まるでプレイヤーが統治者本人になりかわったかのようにプレイしてもらうことを目的としている。もちろん戦争という行為がゲームの花形ではあるのだが、日本や中国の独自文化を表現しながらその時代というものそれ自体にプレイヤーをいざなうことが重要なのだ。しかし、ゲーム性というものは勝手に一人歩きしていき、いつしか土地の取り合いが主目的の戦争ゲームになっていった。

とりあえずここに歴史シミュレーションゲームは辿り着いた。それがいいのか悪いのかはともかく。

それでも戦争は総力戦の域を出ない。そもそも能力も戦力も地の利も違う国同士が戦うのはゲームに本来あるべきルールの下の平等性を欠くものだ。それを解消するのは、初期条件、同等の保有戦力、同一マップなどの共通ルールを設けることだ。それはもう歴史をシミュレートすることとは全く別のことになる。

戦国時代という時代状況を表現したかったはずなのに、戦争行為を純粋化すればするほど抽象的な戦争ツールになってしまう。それはただ武将の名前が違うだけの汎用的な土地の取り合いゲームにしかならない。

そういった歴史の縛りの中であえぐシミュレーションゲームを尻目に、敵をただ倒し続ける三国無双が一〇〇万本を突破するという皮肉が重なる。ゲームというものが何を求められているのかを端的に示す現実だった。


・ただのゲームであるということ

三国志大戦にとって、武将は勝つための駒である。それは将棋やカードゲームと同じで能力値のついたただの記号でしかない。手に入れた複数のカードから勝つための組み合わせを考える。それを盤上で動かしながら相手の城ゲージを奪っていく。カードゲームのセオリーを取り入れながら巧みに歴史性を排除していく。決められたコストの中で自由にプレイヤーは組み合わせることができ、そこに制限はない。無限のデッキバリエーションが尽きない興味をかき立てる。完全なるゲーム、勝ち負けを決めるただ純粋なゲームである。

ただのゲームであれば、いかに面白くなるかを追求すればいい。なぜか雷が落ちたり武力が上がったりするが、基本的に相手との条件は平等なのでルールに従えば問題ない。この場合、対戦ゲームであるということが非常に重要な意味を持ってくる。どうだろう、最近のヒットゲームの多くが対戦を主目的にしてはいないだろうか。そのためのツールとしてのカード、入力デバイス、簡単な操作などが求められている。ゲームは勝敗を決するものであるという本質を追求したものがやはり人気が出るようだ。戦うことで得られる感動はゲームをする目的のひとつである。むしろ、プレイヤーはこれに飢えているからこそ戦う。そうでなければ人生を賭けて球を打ったりボールを蹴ったりはしない。面白いものに人間は引きずられ続けるものだ。

ただのゲームという境地、この域に達したからこそ三国志大戦は絶大な人気をゲームファンから得ている。純粋にどうすれば面白いのかを追求できる冒険心、大胆さ、非難を受け入れる謙虚な心? がクリエイターにはあるのだろう。少し冷めてしまうと下らない、いらないものに成り下がるただのゲームに大人達が本気で取り組むからこそ面白いのだ。この人たちも恐らく引きずられ続けている人種なんだと思う。自分は最高に尊敬するのだが。


・ゲームというものの立ち位置
自分にとってモンスターハンター三国志大戦は面白いものではあるが何かを失ったというか、ゲームが狭隘な場所に押し込められてしまったような、ちょっと漠然とした『こういうもの感』を感じさせてしまう。

これは全く勝手な憶測だが、歴史シミュレーションゲームを作った人はもっと大きな、もっと大それたことをやろうとしていたのではないだろうか。ゲーム黎明期のクリエイターはとても多くのことを求め、表現しようとしてきたのでないかと思う。それはゲームとして実を結ぶかどうかはわからないけれども、処理能力やグラフィックの表現能力が低いからできないとかいう問題ではなかった。アイディアだけが彼らの妄想を駆り立てた。
しかし、ゲームファンはそのようなものを求めてはいなかった。いや、ゲームに対する強度が変わったのかもしれない。

三国志大戦は面白い。しかし、勝負に勝つことが優先されるゲーム内容は歴史に夢を持つファンを排除する危険性をはらんでいる。城ゲージを奪い合うという目的もなんら歴史性を表現しているものでもなく、ただの対戦ルールでしかない。聞いたこともない武将が歴史上に名を残した猛者を次々と倒していくことも珍しくない。計略という魔法のような効果次第で勝負が決していくことも全くたかがゲームなのである。


三国志大戦三国志大戦でいいし、モンスターハンターモンスターハンターでいい。
しかし、これらを産んだ母体である歴史シミュレーションやRPGはもう求められないのだろうか。マンネリのなかで既存タイトルのリサイクルをし続けるだけなのだろうか。表現に対する冒険心は失われてしまったのだろうか。

自分がゲームについて色々書こうとすると大抵RPGやシミュレーションゲームの物足りなさに行き着いてしまう。ただのゲームとして開き直った方がよっぽど面白いものが作れるという事実を見せられてしまうと、RPGを膨大な労力を消費して作る意味を失ってしまうのではないだろうか。しかもいいんだか悪いんだがわからないストーリーを表現するために、だ。かかるコストの増大と一人で遊ぶゲームの需要低下がさらに制作する必要性を感じさせない。これではもうジャンル自体の消滅を招きかねない。

三国志大戦に人気があるのは背景に三国志というドラマがあるからだ。確かに駒には違いのない曹操劉備も、プレイヤーの脳内では物語の英雄として変換される。あの曹操を動かす、あの劉備に成り代わって魏を倒す、そのようなプレイはこれも立派なRPGだろう。そういう意味でゲームはやはり物語から生まれるのだ。

ゲームが生まれる物語それ自体をゲームとして作ろうとするRPGはそれこそ無から有を作る神業に近い。そこにゲームファンが期待をするというのは無意識のうちにゲームの本質を感じ取っているからなのかもしれない。

 一年の計は元旦にあり

遙か遠くに元旦は通り過ぎてしまったが、書くきっかけがないので有効利用しよう。

去年はWii一色のゲーム業界だった。
販売台数は国内で累計台数約300万台、全世界では約1000万台に上る。ここまでの普及を予想出来た人はそういないのではないか。明らかな色物扱いでゲームファンから軽視されていた発売前がうそのようである。

しかし、1ゲームファンとしては必ずしもこれがゲームの新しい時代の幕開けとは思えない。

昨今、『ゲームのコモディティ化』が進んでいて、似たようなゲームがグラフィックを変えて販売されている状況が続いている。『コモディティ化』とは商品の特性が均質化し、低価格で普及品化する状態のことを言う。

ゲームとは本来もっともそういう状態から遠い商品であるはずだった。ドラクエとマリオは比べられないし、ポケモンとテトリスを比べることも出来ない。それぞれがゲームとして独自の『品質』を持ち、数値として測定できない魅力を持っていた。

だが、いくらゲームが他の商品とは違う特性を持っていると言ってもコモディティ化は避けられなかった。しかもそれはもっと悲惨な形で起こっている。

ゲームの品質とは何のことを言うのか。グラフィック? 音楽? 確かにこれらもひとつの価値ではあるが、ゲームの品質とはやはり『遊びを生み出す構造』(アイディア)のことだろう。ドラクエがなぜ面白いのか、テトリスがなぜ面白いのかを考えれば、それはグラフィックでも音楽でもなく『遊びを生み出す構造』が面白いのである。

しかし、ゲームとして最重要なこの要素は皮肉にも簡単に真似ができてしまう。商品開発において他社に真似の出来ない独自の技術を持つことは重要なことだが、ファミコン時代ならまだしもこの時代に技術的な差を見せつけることは容易ではない。

だから綺麗なグラフィックを見せるかリアルな動きを表現するぐらいしかなくなる。『ワンダと巨像』のところでも書いたが、リアルであることがゲームの品質を高めることにつながるとは思えない。そもそもリアルになるとゲーム制作の幅がせまくなり、結局戦争モノのFPSか物理計算をする面倒くさいアクションゲームになってしまう。それが面白いという人もいるので一概には批判しないけれども。

反対にアイディアだけで勝負するようなパズルゲームやテーブルゲームは容易に真似される。もう大抵のゲームはケータイレベルでも遊べるし、価格も数百円や無料で楽しめる。PS3でHDテトリスを数千円出して買う人はまずいないだろう。

つまり、ゲームを制作することに必要なアイディアは容易に真似が出来、それを表現する媒体の低価格化により普及品化する(コモディティ化する)のである。

ドラクエやFFが未だ売れている現状というのは、このような均質化した荒野において確固たるブランド力を維持しているからである。正直個人的には限界だが、強度の低いゲームファンには安心できるブランドとして今後も残っていくだろう。


さて、この流れでWiiを紹介すると非常にずるい感じがするけど、だから任天堂はWiiを作ったという結論以外導きようがないからしょうがない。DSの成功の意味を一番理解していたのは当の任天堂であり、いちいちへたれ批評家が据え置き機は終わったなどと主張するまでもなく、ゲームの現状をわかりすぎるほどわかっていた。

『心身二元論』という考え方があるが、ゲームにおいてハードとソフトは互いに分離しているのだろうか。ドラクエがファミコンでもDSでもケータイでもできるような現状を鑑みれば、ソフトはハードと無関係にあらゆる身体に宿るように思える。実際動作条件さえ満たしていればソフトはハードの壁を越えられる。それが結局携帯ゲーム機の普及を反映してもいる。

しかし、それはゲームのひとつの側面でしかない。アイディアさえあればゲームは生まれるが、ソフトという精神世界だけの行き詰まりがゲームの幅を狭めていることは残念ながら明白である。

だから、Wiiや三国志大戦(これは次に書きます)というものはハードとソフトが分かちがたく結ばれていて、決してケータイではできない独自性を持っている。そしてこれらが絶大な人気を博しているのは新しいゲーム体験への欲求を満たしている結果でもある。ゲームセンターに個性的な筐体を持つゲームが増えてきたのもこのような『心身二元論』的なゲームからの解放、一元論的な主体性の確立(?)の反映ととらえてもいいだろう。


しかし、そうなると困るのがRPGである。もう何がRPGなんだかわからないけれど、とりあえずストーリーを登場人物の一人として楽しむゲームをRPGとすれば、これに大型筐体は必要ない。RPGというのは本当に精神的な世界でしか起こりえないゲームでしかなく、お化け屋敷やメイド喫茶的な体験型アトラクションの方向に向かうしかないんじゃないかという危機的な状況である。

それでもRPGが好きな人は約70%、2006年の年間販売本数はRPGが約21%を占める現状(2007年CESAゲーム白書)を考えれば、こういったハードに固執しないアイディア勝負のゲームが行き詰まるということは、ゲーム業界にとって大きな痛手を負うことになる。このパイを失うことは一番の顧客を失ってしまうことになるのだから。

なので、自分はこのようなアイディアのひとつでも考えられないかと思い、だらだらとブログを書いているという次第です。

『一年の計は元旦にあり』と言うし(とうに過ぎたが)、何かしらの可能性を示せればいいなと思います。

既視感は偽りか〜映画ヱヴァンゲリオン(序)感想

リメイク作品の評価は案外難しい。
今回の『序』は導入部分としては申し分なく、かつ新要素も取り込んだそつのないデキと言える。観たことのない人に対しては新鮮な興奮を与えるに違いない。

ただ、もしこれがあと三回続くのなら、自分は飽きてしまうだろう。残念ながらもうシンジ君とともに悩むような世代でもないし時代でもない。作品としてのクオリティーは前作(THE END OF EVANGELIONまで)で十分評価しているし、それがデジタル技術等で書き直されれば良くなることはあっても悪くなることはない。実際恐ろしいほどのクオリティーで書き直されていることは誰が見ても明らかで、細かなオブジェクトに対するフェティシズムは相変わらず健在だと感じさせる。同じストーリーを見せるだけならそういう評価で終わるだろう。

しかし、この『ヱヴァ』は違うようだ。前作の碇ゲンドウが持っていたアダムの幼体と綾波レイとの融合の結果生まれた『存在』(今の段階ではこう呼ぶしかない。カヲルが目覚めた場所にいたリリスをこの『存在』と同一視することは可能だとは思うが、そうであれば第三の使徒かと)が死んだ(またはシンジによって否定された)後の世界を表現している。そしてこれは、前作エヴァンゲリオンの後に生まれたアニメーション群を比喩的に表現していると考えれば、かなり現状に批判的な作品になっていくであろうことが想像できるのだ。

つまり、これは前作から10年を経たことを内包した続編になるということである。当然、現在のアニメ業界を意識した内容になるだろう。それは庵野秀明監督の所信表明からも読み取れる。
以下、プログラムより抜粋↓

「疲弊しつつある日本のアニメーション」

「この12年間、エヴァより新しいアニメはなかった」

「中高生のアニメ離れ」

この辺りの感覚は当事者の実感として受け取っているのだろうが、正直何を持ってそう感じるのか一般人にはピンとこない。

疲弊とは何か、新しいアニメとは何か、本当に中高生はアニメを観ないのか。

何となく技術面ではなく精神的な部分を指しているようには思うが、現在のアニメ全盛時代に同業者の方はこの発言をどのように感じるのだろうか。

視聴率競争の激化で巨人戦すら放映しない時代に、ゴールデンで流せるアニメは限られている。そんな中で各アニメ会社は深夜枠で安いCM料の時間帯を利用し必死に雑誌やDVDの宣伝を行いアニメ業界を支えている。
それが萌えアニメばかりだ、パクリばかりだと批判はできても、需要のあるものを売るしかないのは企業として当然である。ネット上で流行ったネタをすぐに取り込む姿は涙ぐましいほどの必死さを感じさせる。

少なくとも、現在のアニメーターはエヴァを観ていないわけがないし影響されていないわけがない。エヴァがきっかけでアニメ業界に入った人だっているだろう。全てではないにしても、この10年はエヴァの余韻を引きずりつつ新世紀をまさに生きた時代だったと言っていい。

この結果を庵野監督は『誤読』を続けてきたと批判するのだろうか。そして誤読を続けてきたエヴァの後継者たちは前作の巨大レイから生まれた新たなる使徒であり、人類が戦わなくてはならない敵だと判断するのだろうか。
まあ、この辺りは4部作全てを見終わった後に何かしらの感想を観客に抱かせるだろう。それまで待つしかない。


○女性崇拝

エヴァに対し父と息子の葛藤からシンジの自立を読み解くことは容易いが、その救いが女性に背負わされていることはあまり指摘されない。

レイやアスカという架空の2次元少女に異様に思い入れるファンを突っ放しまくった前作は「こんな場所に救いなどない」と訴える作品になってしまった。

それは女性という存在を過度に持ち上げているか、過度に軽蔑しているかのどちらかになる。実際、作品中でシンジが見せられる女性像は母という絶対的に信頼できる存在か、女という自己中心的で打算的な存在かのどちらかだった。
それを乗り越えられるのがミサトとの関係で、実戦(?)がアスカだったと言える。

この10年、女性を語る言葉は多様に増え、結婚できない女性を「負け犬」だの、ホモマンガに萌える女性を「腐女子」だの、どちちかというと女性を貶めるようなレッテルが増えた。それは別に男性の側から言い出したことではなく女性が自分自身を振り返ってそう呼んでいるようなのだ。

少なくともエヴァでは男女双方の視点から見た女性像が混在する。少年であるシンジにとって過剰とも言える演出は明らかに観客であるファンに対しての挑発だった。アニメで普通の女の姿を描いてそれに意味があるというのは、大いに皮肉である。

アニメという創作物では女性は特別な存在として輝いてしまう。目の前で包帯を巻いた女性が現れたら代わりに戦うと言うしかない。必要以上に輝いてしまうがゆえに、女キャラは現実の女性より遙か高みに持ち上げられてしまう。

この『女性崇拝』は現在アニメを語るキーワードである。
実際、戦う女性を主人公にしたアニメが後を絶たない。女性、特に少女をあがめ奉る文化がエヴァ以降本当に流行った(先駆作はもちろんあるけれど)。それは現実世界にもたぶんに影響を与えたことは記憶に新しい。男よりも女、大人の女性よりも少女という流れは、女としての面倒な物事を未だ受け持つこともなく、何よりも処女であるということのアイドル的要素(もちろん脳内での)が大きい。

この少女信仰、女性崇拝に対し、現実の女性は疲弊していくばかりである。仕事で疲れ、結婚には慎重になり、とても男の願望の対象としていつもニコニコ笑っていられる存在ではない。

次回ではアスカが登場するようだが、前作と同じようにシンジを拒絶して孤独に一人死んでゆくのか、それとも恋人となり得る要素を持つ女として描かれるのかは『ヱヴァ』にとって重要だと思う。この10年を内包するのであれば同じであるはずがないと期待したい。


○なんかわかったようなことを書いたが

結局、またエヴァか、という思いは何を書いても消えない。社会現象を起こしたアニメをリメイクすればそりゃ売れるよ、という侮蔑的な評価も当然ある。もし現状のアニメ群を作り出した責任でも取りたいのであれば、エヴァより新しいアニメを作ってみろよ、という声が他のアニメーターから出てもおかしくない。

アニメはゲームと同じで無くても構わないものである。これで飯を食べている人達の事情など他人は知ったことではない。

ただ、エヴァはエンターテイメントの質が高すぎた。誰もが何かを書けたし語ることができた。このような作品はしばしば自らの領域を超えて社会現象を巻き起こす。そういう奇跡が起こる可能性を示したのは賞賛に値するが、別にアニメにこだわる必要はないんじゃないのという疑問も湧く。実際、実写映画に関わった経緯もあるわけだから。

だから、10年経ってもエヴァが面白かったりすると逆に萎えたりする。俺は何も変わってないんじゃないかと情けなく思ったりする。映画館に行列が出来たり、グッズが大量に売られていたりするのを見ると、映画本編のように既視感を感じてしまい、なぜか恥ずかしくなるのだった。