Nonkunのブログ

主にゲーム関係について書いてます

アニメアンチスレとは?

巨大井戸端会議場(通称2ちゃんねる)でリアルタイムコミュニケーションができるようになって、人々の情報交換量は飛躍的に増大した。

一昔前は無駄話や長電話は女性がよく批判される行為のひとつだったが、なんのことはない、グダグダとどうでもいい会話を繰り返すのは男でも変わりはしないということがネットによって証明されている。

誰でも会話になるような世間話が多い女性と比べて、男はどっちかと言えば趣味に偏った話題が多く、その最たるものとしてアニメやゲームが存在する。

単純に好きだ嫌いだというレベルで言い合ってる分には本当に他愛のないことなのだが、こういう分野には恐ろしく博識で我が強く、作品の良し悪しを論理立てて説明するタチの悪い(?)人たちがいる。自然とそこには対立が生まれ、煽り合いの結果ファンのスレとアンチのスレという二つの居場所が必要になった。この傾向は特にアニメに強く、話題のアニメには大抵アンチスレというものが存在する。奇妙なことに、好きでもないのにアニメを見て面白くないと批判するスレッドなのだ。

このアニメ批評ブームは制作者や声優に多大な影響を及ぼし、作品内にあらかじめ視聴者の反応を織り込んでいるものも多い。顔の見えやすい客に対してオーダーメイドの作品を制作している感さえある。客が座れば「いつもの」料理を差し出す板前のようだ。

それはアニメファンにとって好きなものだけを食べていくことができる夢のような状況である。しかし、それは客同士の趣味嗜好を激しく乖離させることになり、いつしか論争が生まれる土壌にもなる。

特に最近のアニメはライトノベル原作のものが多く、この原作自体がアニメ・ゲーム成分をグツグツと煮詰めた濃度の高い作品に仕上がっている。一般人にとっては一見さんお断りの印象は否めないだろう。

普通ならこのあたりがいい年をした人にとっての引き際である。例えばゲームは経験が役立つ娯楽であり、ストーリーがあまり意味をなさない分野なので年をとっても楽しめる。しかし、アニメは確実に経験が足を引っ張る娯楽であり、やっぱり昔の方が面白かったというありきたりな批判を今の作品にぶつけざるを得ないのだ。

しかし、これで諦められれば簡単なのだが、やっぱりアニメを見てしまうのである。三つ子の魂百までというが、何歳になってもフィギュアやプラモを集めてしまう一世代上のオタク達のように、その下の世代はアニメやゲームから離れられない。しかも2chやニコ動などの趣味を共有できる環境を整えて、家族がいようが孤独だろうが関係なく話題の中に埋没することができる。

ジャンプとファミコンでいくらでも話しができる世代にとって、今の環境は恐ろしいほどの好待遇、いつまで経っても子供のおっさんであり続けてしまうほどの状況だが、今のアニメを見るとそれも限界かもしれない。どう考えても今の作品は過去の劣化コピーかパクリまくりのインスパイアアニメにしか見えない。というか、見えてしまうのがそもそも手切れの時期なのである。

アンチスレというものは、そのような疎外感を持ってしまった人々が「これってつまらないよね?」と感想を共有して安心する場所になっている。「なんかすごい盛り上がってるけど、ただの厨二病アニメじゃん」などと言っても、それは年寄りの決まり文句と同じで話題を共有できないことの証明になってしまっている。それでもアニメで井戸端会議を続けたい人々は、面白くないことを共有して話題にするしかない。全く興味のない人々にとってはわけのわからないことだと思うが、アニメやゲームから離れられない人々にとっては必要な場所なのである。

これはテレビアニメというメディア特有の現象だろう。マンガやゲームは基本的に好きな人が金を出して買うものであるからそこまで批判が出るようなものではないが、何ぶんアニメはタダである。タダで話題を共有できて批判して悦に浸って、またそのような人を批判して議論ができる。共有できる話題が欲しい人々にとって、アニメは最もふさわしいものかもしれない。そういう意味でのアニメ需要はまさに今時な趣(おもむき)がある。


それにしても、今のアニメを見ると女の子がいきなり降ってきた系のいかに多いことか。それに加えて超能力でも使えればもう出来上がりだ。アニメは現代のオタク願望を表現する。風当たりの強い主人公は自分ではなく女性、それも強くて裏切らない女性だ。特に努力もしないがなぜか好かれている。ここでうる星やつらなんて書くと、もうだめだ。

さあ、アンチスレへ行こう。

続・RPGについて考える~GTAとの絡みで

ロールプレイングという『遊び』が広くゲームの世界に浸透した原因とは何だろうか。

現在のゲーム環境は、おままごとやごっこ遊びを楽しむためのものといっていい。それは今ならばテーブルゲーム以外はRPGと呼んでもいいような状況だからだ。

本来、人生というものは自分一人だけで精一杯のはずである。自分の人生にさっさと見切りをつけて他人の人生を生きてみたいと思うことは、現代の日本人にとってそれほど突拍子もない考え方でもない。

社会のあり方や人生の哲学、または生死に対する日常的な不安といったものとごく自然に対峙してきた人間の歴史の中で、今ほどそのような世界の大枠が遠のいている時代はない。それは特に日本においてそうであろう。

政治に対する庶民の無関心は結局のところ無言の肯定である。つまり、金の勘定さえ間違えずにやってくれればいい、という程度の期待といえる。誰が総理大臣になろうが金の配分の比重が多少違うだけで、政治体制が劇的に変わるような状況にはなりえない。せいぜい自民党から民主党へ切り替わるぐらいのものだ。
波風立てずなぁなぁにというところが日本の真骨頂であり、そしてそれは国民に支持されている。

別にかまわないと思う。それなりのリスクというものを背負うことが極端に嫌いな日本人であればなおさらのことだ。農耕民族だからとか島国だからとかそのようなことなどあるかもしれないが、おとなしくしてろと米国に言われればそのようにするのがアメリカ幕府の下で大商いをさせてもらっている富商の勤めだ。権力争いの座から落ちた人間とはこのように卑屈になるものかと思うほどである。

無駄話が過ぎるが、ようするに日本に巣くうこのような鬱屈した厭世感というものは人間から空想や妄想を引き起こすのである。アニメやゲームをひたすら持ち上げる現状というのは、裏側にある日本のこのような卑屈さを認めて恥じることをしない厚顔無恥さ加減を世界にアピールしているようなものだ。しかし、それでも我々にはアニメやゲームが必要であるところに、どうしようもない悲哀が存在する。

それは恐らく、かつての日本にはそのような卑屈さはなかったからであろう。元からこのように他国に媚びへつらって生きてきた国であれば悲哀もへったくれもないが、日本人の空想の源泉には権力争いの中で屈することをしなかった過去の人間達の姿が存在するのである。

そしてその姿はあり得べき日本人の姿としてアニメやゲームで表現される。多くの主人公は戦いから逃げず、例え犠牲を払ってでも国を守るために戦うのだ。この空想と現実とのギャップはアニメだからとかゲームだからとか、そのような割り切り方で理解されるものとも思えない。生き方として分裂した空想と現実の住人は、いつしか再会の時を迎えるような気もする。

そのような状況のシミュレート、来るべき日のためのロールプレイング、そのような位置づけとしてRPGを見ることは極めて突飛で噴飯物であろうが、日本人の二次元に対する距離感というものは世界の中でもかなり異質なものであることは確かだ。作り物の人形を抱えて『俺の嫁』だと叫ぶ精神病患者は、本物の人生を歩むことができない現代病のひとつである。


GTAというもの
『グランドセフトオート』(GTA)というゲームを知っている人は多いと思う。このゲームはRPGとしての極点をなしている。そしてそれが物議を醸し出していることもよく知られている。

その多くは残虐な表現についてのものであるのだが、しかしそれには多くの疑問がある。

そもそも、アニメや映画に対する年齢制限とゲームに対する年齢制限の考え方は全く違うものでなければならない。そのことがわかっていない有識者が多い。

GTAにもし罪があるとすれば、それは『現実をそのままに表現してしまった』ことにある。これには大いに皮肉が入っている。

銃を人に向けて引き金を引くとどうなるか? 答えは銃弾が人体を損傷し殺すこともある、といったところだろう。これはGTA特有のルールでもなんでもない。残虐な表現をするために非現実的な状況を設定したわけでもなんでもない。現実をそのままシミュレートしただけの話だ。しかしこれは年齢制限に引っかかるという。おかしな話だと思いませんか?

GTAのロールプレイング要素は人間が罪を受けない状況になるとどう行動するか、ということをあられもなく表現してしまうことにある。簡単に言えば、透明人間になったら男は大抵女湯に潜り込むということをご丁寧に教えてくれるわけだ。理性のタガが外れると人間は欲望をむき出しにして行動する。その自由を与えてくれるゲームがGTAというものだ。

実際のところ、例えば銃を通行人に向けて撃ったとしよう。頭がふっとんで血が飛び散って死亡する。リアルになればなるほどそれは撃ったプレイヤーに対して人を殺したトラウマを与えることになる。それを人間が楽しむことが出来るのだとしたら、それはゲーム制作会社に文句を言うことではなくて親か神様に言わなければならない。どうして人は人を殺すのですか、と。

海外のゲームに共通する俯瞰視点というものがこのゲームにも色濃く反映されていて、ゲーム内で息づく街の人々に何をやっても許される(ペナルティは後付である)状況というのは日本人的なあり得べき姿とのギャップという観念とは全くことなる。極めて幼稚なおままごとそのままの状況がGTAなのである。GTAのロールプレイは不死身の体を許された子供がやりたい放題できる小学校低学年の行為なのだ。表現的には18歳以上限定なのかもしれないが、やってることは小学校低学年限定なのである。

現実の世界を精巧に作り上げて完全なる自由をプレイヤーに与えるゲームは、真夏に冷房を効かせて熱々の鍋を食うようなものだ。それが面白い事は確かに認めるのだが、元々自由な空間であるはずのゲーム世界に現実のルールを作り上げることの面白さは今ひとつ日本人には受けない。社会的に疎外された状況に積極的になろうとする人もそれほど存在しない。結局のところ、GTAが提供するこの自由を楽しめるほど精神的に劣って(または優れて)はいないのである。

RPGの極点としてGTAは存在するが、その楽しみ方がゲームファンの一部に限定されるのは、日本人特有の分裂された自己に対する欲求に答えられないからであろう。何でも出来る自分などよりも、何かを期待されてそれに応えられる自分というものに強い憧れを感じるからではないだろうか。社会学者の言う、『自己の承認』が欲しいのかも知れない。


・大人にとってのRPG
カードをぶつけ合って戦闘を楽しんでみたり、コックピットに乗り込んでロボットを操ってみたり、馬を育てて走らせてみたり、日本人というものは多くのなりたいもの、やりたいことをゲームによって体験してきた。特に子供にとって未知の世界は好奇心を刺激してやまなかった。

ならば、大人にとってRPGとはなんだろうか。昔を思い出してゲームを買っても積んであるだけで遊んでいない人は多い。長い冒険に期待しないわけでもないが、さすがにレベル上げをこつこつ行うような時間もないし、何よりモチベーションがわかない。だったらプレイ動画でも見てやった気になるほうがタダだし早い。恐らくゲーム好きであればあるほどゲーム解説を読めば大体のプレイ内容は想像でき、その過程ですでに飽きてしまうのである。未知の刺激に対して好奇心よりも面倒くささを感じてしまい、大して違わない体験ならする意味がないという諦めが先に立ってしまう。ゲームを買いたくても買えない大人はたくさんいると思うし、自分もその一人である。不幸なことだと思う。

wiiが売れたのはリモコンを振って遊ぶという体験を誰もしたことがなかったからだし、初めから諦めなどとは無縁の存在だったからだ。まあ、がっかりということはあると思うが、どうせ同じだろうと頭から諦めるよりはましである。

PSPが売れたのは『理』である。動画が見れて音楽が聴けてゲームが出来てネットも見れる、これで2万…。というような理詰めの結果だ。これは大人が意志決定する上で極めて当然の判断である。しかし、結果的にモンスターハンターの大ヒットで売れたというのはいささか意外だった。結局のところゲーム機に過ぎなかったのだなぁと改めて思い知らされた感じだ。

RPGが誰かにとっての人生であるとすれば、自分の人生こそが最大にして楽しむべきRPGであらねばならない。ゲームファンはそこで少々不自由を感じている。それは社会のせいであるかもしれないし自分のせいであるかもしれない。または一時の状況に過ぎないのかも知れない。大人になって自分の立ち位置が定まれば自然とRPGから離れていくだろう。家庭を持てば新たなRPGが始まりもする。

遊べなくなってしまった自分を悲しく思うのか、それとも楽しませてくれるゲームが無いことを嘆くのか。それは怪しく絡まり合いゲーム離れを加速する。ゲームは今、暇つぶしか教育という現実に付随する形で居場所を固めつつある。確かにそれは賢い選択で社会的に認められる位置だろう。しかしそれでいいんだろうか。

ゲームの影響力は小さい。それはテレビや映画などと比べれば途方もなく小さい。マイナーなメディアとしての立ち位置がまるで権力者にすり寄る商人のようではないか。テレビのネガティブイメージに完全におもねっている。もう批判の対象にすらならない。GTAを過激だと批判したところで、どれだけの人間が真剣に考えるのか。そもそもゲームファンの一部以外は知りもしないだろう。

作られた現実世界で好き勝手に出来るゲームは結局のところ箱庭として暴力の流出を防いでいる。権力の座を巡って他のメディアと戦うには、所詮子供だましのおままごとだ。プレイヤーに影響を与えるようなRPGというものはおそらくこのような場所にはない。

大人が求めるRPGはGTAよりももっと過激であるのかもしれないなぁ。

RPGの存在意義〜ストーリーを楽しむということ

コンピューターRPGでストーリーを楽しむとはどういうことか?
ということをつらつらと考えてみたい。

ストーリーを楽しむという要素はRPGを遊ぶ目的として大きな位置を占める。
しかし、それは小説やアニメを見ることと何が違うのかという疑問が湧く。

テキストやムービーを見ることによってストーリーを知る、これがRPGなら字幕付きCGアニメでいい。実際、いわゆる『ムービーゲーム』と呼ばれるRPGは多い。

これは物語を伝えるための手段が文字と映像、音声以外にないことが原因である。ゲームだと構えて遊んだ結果ムービーばかりだと騙されたような気持ちになるが、ストーリー重視の内容であれば作者の考えた面白い話を聞いてあげるしかない。

よく『ゲームとストーリーは相性が悪い』と言われるが、それはゲームがストーリーに縛られてしまうからである。アクションゲームでプレイ方法が決められているようなものだ。ストーリーはプレイヤーの自由度を制限する役割を担ってしまうのである。

とはいえ、ストーリーがなければゲームそのものが存在できないのも事実。どんなに単純な横スクロールアクションでも目的があるはずだ。アクションゲームにもストーリーがある。しかしそれをRPGとは言わない。この辺りのジャンル分けは日本の特殊なゲーム史によるところが多いのであまり意味はないのではあるが。

もちろん特殊な事情とはドラクエの存在である。日本においてRPGを考えるということは、結局ドラクエを考えることと等しくなってしまうのだ。


・ドラクエのゲームデザイン
ドラクエのような成長型RPGの場合、古き良き少年ジャンプの手法と同じで、主人公が戦いを繰り返すことによって強くなり、ライバルを倒して仲間を増やし、最終的にはみんなで力を合わせて世界を滅ぼす敵を倒す、という図式を踏襲する。

ドラクエ自体が少年ジャンプと密接に関わり、ドラゴンボールを連載中だった鳥山明がキャラクターデザインを担当したということで、当時の子供達に絶大な人気を博すことになった。未だにこの手法は変わらず、RPGと言えば少年ジャンプ型成長物語をイメージする場合が多い。しかしこれはRPGがゲームとして成り立つための『必要条件』である。

RPGに流れる時間、それはストーリーの進行と密接に関係する。
中ボスと呼ばれる存在は主人公のレベルがストーリーのスピードに追いついているかのチェック機能であり、繰り返される戦闘はストーリーを埋める時間そのものである。

つまり、モンスターを倒すことによって強くなること(主にレベルが上がること)は時間の経過をプレイヤーに実感させ、スライムを一撃で倒せることによって成長の度合いをプレイヤーに確認させる意味がある。繰り返される戦闘は成長物語の一部として切り離せるものではなく、その過程を経ることによって目的を達成する喜びをプレイヤーに与える。努力の代償をきちんと支払うということになるだろうか。ロールプレイングと呼ばれるゲームの大半は、この戦闘による成長システムをプレイヤーに楽しんでもらうことにある。と同時に、進行するストーリーと成長システムをシンクロさせることによって、あたかもプレイヤーが主人公となって戦っているかのような感覚を作り出すのだ。

ドラクエの偉大さはこの発明にある。20年経ってもなお、この形式は飽きられることなくRPGのひな形として存在し続けることがその証明だ。司馬遼太郎によれば、天才は型の創始者であるという。堀井雄二はドラクエという型を生み出してRPGを支配している天才だが、彼がその役目を終えるのはこの型がプレイヤーに飽きられる時なのだろう。


ライトノベルとRPG
小説、アニメとRPGは何が違うのかということを考えたい。
それはサウンドノベルを遊ぶことと、携帯ゲーム機で小説を読むこととは何が違うかを考えればいい。
主人公がプレイヤーであるということだ。

しかし、最近のライトノベルと言われる小説はやや趣が違うように思われる。
ライトノベル、またはキャラクター小説と呼ばれるような本が一時期話題になった。非現実の世界で物理法則を無視した超常現象や特別なチカラを持ったキャラクターが活躍する内容が多いのだが、つまるところ、読者がそういう奇妙な世界を体験するという体裁になっていることが多い。

平凡な主人公が異常な世界に巻き込まれる、または主人公が常人にはないチカラを使える、そのような状況を読者とともに『体験』する。
平凡な主人公はそのまま本を読んでいる読者の代弁者であり、彼の疑問は読者の疑問として登場人物にぶつけられる。おかしな世界に巻き込まれていく主人公とともに読者もその世界に引き込まれていく。

これは、読者がRPGをしているということを意味してはいないだろうか。
想定された主人公はもちろん物語の中にいるのだが、実際のところ読者を意識して、読者とともにストーリーを体験しているのだ。これが意識的か無意識的かはわからないが(もちろん両方あると思うが)、しばしばアニメのようだ、ゲームのようだと言われるのは、作者がこういう視点を少なくとも無意識のうちに持っているからなのだ。私小説とは明らかに違うのである。

だから、RPGの楽しみ方の一つとしてライトノベルがあるという風に思った方がいい。実際テーブルトークRPGを小説にした『ロードス島戦記』はまさに読むRPGそのままであり、多少の趣は違っても体験する小説という意味合いをライトノベルというジャンルは持っている。もちろん、著者がアニメ・ゲームを大量に摂取していることも原因だろう。

ドラクエの真似をしてキャラクターを変えればそれでRPGの出来上がり、というゲームが大量に、それこそ20年以上作られ続けてきた。すでにこのような方法論では、ストーリーのバリエーションではライトノベルに勝てず、表現力ではアニメにかなわない(対抗するには超美麗CGムービーが必要になる)。小説やアニメとゲームは違う、と言えるほどRPGにとってゲーム性は大きくはないのだ。

ならばやはり戦闘シーンをメインに考えよう。…また同じ結論になる。


・RPGの苦悩
以前、モンスターハンター三国志大戦について、これらの特徴はストーリーを排除したことにあると書いた。排除したことによってゲームクリエイターの活躍できる場が広がったのだと思う。
まず戦闘そのものを中心としたゲームシステムを基本に据えた上で、適合するストーリー性を薄く付与しているのである。

といっても、モンスターハンターに物語の主人公はいないし、三国志大戦にいたっては物語の『三国志』からイメージを借りているだけにすぎない。三国志大戦のストーリーモードを取り出して考えると、ただの紙芝居である。

ゲームが昔ながらのアクションに回帰しているのは、ゲーム自身がもつ特質、つまり勝負をつけるということを要請するからである。
勝負がつかないゲームとはなんだろうか。おそらくそのようなものはない。

RPGというジャンルの特殊性は、勝負をつける場が戦闘シーンにしか存在しないということである。これは本当に致命的だ。

だからこそ、最近のRPGには戦闘シーンをまるでアクションゲームのように表現しているものがある。また、将棋のような碁盤目に区切られたフィールドを使い、ゲーム→ストーリー説明→ゲーム、という紙芝居タイプも多い(これはSLGと呼ばれることもある。)。これ以外は昔ながらのコマンド戦闘を繰り返す『ドラクエ・FF型』くらいだ。RPGの物語を伝える構造はほぼこれで極まっている。

ひところ騒がれたオンラインRPGというものも、結局のところレベル上げに時間のかかる単純作業ゲームだった。これは、オフラインRPGというものがストーリーの完結をもって終わるのに対して、オンラインRPGでは永遠の時間のなかで生き続けてしまうことに起因する。もともとRPGとは物語を消費するために存在するのだが、終わらない物語を延々とやらされるオンラインRPGは、RPGの欠点である『ゲーム性は戦闘シーンだけ』という特徴がまともに露呈してしまうのである。

もちろん、そのような弱点を補完するためにアイテム作りだのスキル上げだのという成長システムを増やしているのだが、結局のところ単純作業には変わりない。
また、最近はアイテム課金という現実のお金でゲーム内アイテムを買うシステムも存在し、もはやRPGの質が金儲けに変わってしまっているような気がしないでもない。

かくしてオンラインRPGは期待された割に成長しないジャンルになってしまった。それもこれも、RPGというゲーム性の薄さが原因である(しかし、これはオフラインRPGをオンラインでおこなった結果である。未だオンラインRPGの方法論は確立されていない。オンラインでの堀井雄二は出ていないのだ)。

戦闘シーンを作り込みたいのならモンスターハンター三国志大戦になるし、ストーリーを楽しませたいのならライトノベルやアニメのほうがいい。

プレイする側も何を目的としているか明確にしづらいのがRPGというジャンルである。
結局のところタイトル名や煽り文句で買ってみるのが現状ではないか。ドラクエ・FFが売れるのはRPGというゲームジャンルがイメージ先行型の雰囲気ゲームである傾向が強いからかもしれない。


・あいまいなRPGという定義
『RPG』というものをwikipediaで検索すると『リソース管理運用ゲーム』という説明が出てくる。この考えが自分にはどうにもピンとこない。
例えばどれだけ深くダンジョンに潜れるかを競うゲームの場合、限られた資源をうまく活用することが重要になる。ローグライクゲーム(こういう単語を使うことがなぜかいやだが)などを考えればよくわかるが、クリアすることが目的の一人遊びゲームには大抵このような要素があると思う。

しかし、ここではストーリーを楽しむことが目的であるRPGを考えた。同じRPGというジャンルにストーリーを必要としないものがある以上、RPGというジャンルを一意に決めるような要素は存在しないのかもしれない。『リソース管理運用ゲーム』という意味づけもストーリー重視のなかで埋没している感もある。しかしそれもこれも戦闘シーンにほぼ集約されているという実情は変わらないが。

つらつらと考えてきたが、前からドラクエは話を進めるためのコマンド選択に、レベルという制限が加わったテキストゲームだと思っていた。それがいつしか戦闘がメインに考えられるようになり、モンスターハンターのようなゲームが生まれた。

いったいRPGがやりたいという人は何がやりたいのか。
もっと噛み砕いて「ドラクエみたいなゲームがやりたい」ということなのではないか。それなら全力で成長型RPGを作り続けることがユーザーの期待に応えることなのだろう。

しかし、すでに飽きた人もいる。それはドラクエに飽きたというよりも、ドラクエのような成長型RPGに飽きたのである。

こういうRPG難民を救うような新世紀は、画期的な戦闘シーンや美麗なグラフィックではなく、ストーリー構成までを含めたシステム全体にゲームクリエイターが関わったときに来るのではないか。

新しい型の誕生として。